妻に送るラブレター

Friday, November 25, 2005

妻に送るラブレター




              妻に送るラブレター          尾関 豪

 これは我々夫婦が今まで二人で歩いてきた道を思い出し、照れくさくて口では言えない感謝の気持ちとこれからも二人の人生のよき友達であり又喧嘩相手でもある相棒に、これまで以上の思い出を作ってゆきたい気持ちで書いたのです。
この思い出が我々夫婦の財産であり二人で生きてきた足跡なんです。

  覚えているかい、我々が初めて知り合った頃を、お前は安い給料を総て使い、その頃高級だった厚手の純毛製のコートを買って自信ありげに着ていたっけ。そんなお前の姿を見て俺は、カーペットで出来たコートを着たモンゴリアンと知り合ったかな?と思っていた。髪の毛は肩までたらし重たそうに見えたっけ。その頃二人とも仕事を止め、何かを求め人生の歩む道を探していたよな~。だから市が開催する成人教室に参加したんだ。そこにお前もいた。その後、偶然くじ引で二人が役員になってしまったのだ、神の悪戯だったかもしれない。
その厚手のコートを着たモンゴリアン女性とそれ以来成人教室で出会うことになった。きっと冬だったんだ。お前は得意そうに厚手のコートを着込み現れた。金銭的には高かったとは思うがちっとも似合っていなかった。それでも得意そうに厚手のコートを着込み「モンゴールでは美人だ」とでも言うように闊歩していたものだ、もしあのままであったならば結婚していなかったと思うよ。
  付き合い出してしばらく経ち、厚手のコートを新しくトレンチコートに買い替え、髪の毛をショートに切ってきた、覚えているかい、そのファッションがお前にぴったりと似合った。モンゴリアンが都会に出て洗練されたように見違えるほどに美しく垢抜けて見えたっけ。
昔から「馬子にも衣装」という言葉が有るように女は変わるものだと驚いた。
それ以来、都会の女として付き合い始めたのだ、「覚えているかい」。
  金も生活力も無い俺と同棲生活のような形で住み始めた。若かったし二人は夢を話し合った。何故か話が世界を見て回りたいということで一致したのだ。金の無い二人が世界を見て回るには、貧乏旅行しかないがそれでも若さが有った、そして二人はその目標に向かって歩み始めた。世界を貧乏旅行で見て回るには、同姓にした方が何かと問題が起こらない、ということで結婚したんだ。この時点では、本当に愛しあっていたのかどうか不安だった、きっとお前も同じ考えだったと思う。
金の無い二人が結婚するには、勿論結婚式など挙げられないし、若かった俺は結婚式などの儀式が嫌いだった。今でもこの考えは変わってはいない。結婚式なんかは結婚式場の金儲けと親の見栄ぐらいにしか思わず、お祝い金がもらえることに喜びを感じるのだろうと思っていた。そんな儀式になけなしの金を使わず自分たちの目標に金を使いたかったし、それが現代風の素晴らしい考えだと思っていた。今でも結婚式を見てみろ、「何々家と何々家」何んて書いて、厳かに年寄りたちを騙し高い金を請求している。「何が家だ」「ケだ」今でも反吐が出るのに、若かった時はもっといやだったんだと思う。
今考えて見てくれ、結婚式を挙げて別れる夫婦は多くいるが俺たちは喧嘩はするが今でも続いている。
そうだ、俺の得意料理を覚えているかい。白菜を刻んで油揚げを入れ、しょうゆと砂糖で少し甘く薄味で煮る白菜の煮物を、美味かったな~今でも食べたいね、何でも食べられる今ではこんなものを食べても美味いとは感じないとは思うが、あの頃は若さと夢と希望、そんなスパイスで味付けがされていたんだと思う。だから美味かったのだ。単純な白菜の煮物でも二人は幸せに感じたじゃないか。人並みの豊かな生活をしている今では、あの貧しさには戻れないと思うが、あの若さと希望というスパイスの効いた美味い白菜の煮物も又食べる事はできない、若さで料理していたのだ。
  二人で決めて結婚し外国へ貧乏旅行に出ると親たちに打ち明けた時、今と違ってまだ情報が無い時代の親たちは、我が子が戦争に行き戦死するように思ったのかひきつけを起こすほど驚いたものだ。今ならどうだ猫も杓子も外国に行く時代に、外国に行くといっても見送ってもくれない。「行っていらっしゃい、メール頂戴ね」ぐらいの世界だ。
あの頃は家族みんなで横浜港に見送りに来てくれた。お前の親父なんかこれがこの世の別れとでも言うように涙ながら見送ってくれたものだ、今だったら親が死んでも涙一つ流さない時代かもしれない。
  若かった俺はきっと世の中を斜めに見ていたのだと思う。でも、俺が斜めに見ていたとすると、世の中の人は目隠しをして見ているんだ、きっと。
  横浜港からロシア船に乗り別れのテープが飛び交う、船の出港って良いもんだと思った。演歌の世界、涙涙のお別れ、俺の体にも演歌の血が流れているのだと感じる時だ。飛行機ではこういう訳には行かない、あっという間に飛び上がってしまう、その点、船はゆっくりゆっくり岸壁を離れて行く。別れのテープを引きながら「さようなら」の声もだんだんと遠くなり、見送りの姿も小さくなって行く「これが別れだ」とでも言うようになかなかいい。俺の人生で最高の別れのイメージでもある。
このとき何故船で横浜から出航したか覚えているかい?ただ旅費が安かったからなのだ、それ以上の理由は無かった。
  船の中で多くの人と知り合えた。外国に長期で行くのだからと荷物を一杯スーツケースに入れ、もしも誰かに招待されたらとその時のスーツまで持ち、一般観光客のような井出達だった。
船で知り合った世界を放浪するベテランにアドバイスを受け、{こんなに荷物を持っていたら貧乏旅行が出来ない}と教えられ香港から日本に戻る人に荷物を託し送り返してもらう。それでもまだ荷物が多く、初めての貧乏旅行のため重い荷物を持ち歩いたあの時、お前は疲れた、食事が食えないと文句を言うものだから、俺も知らない国に来て緊張の余り町の中で大喧嘩、初めての国でお前を殴ってしまった。警察は来るは人だかりはあるわ、お前は日本へ帰ると騒ぐし俺はパニックになり「勝手にしろ」と香港の町でお祭り騒ぎとなったね。今考えると面白かったが知り合った仲間があの時喧嘩を止めてくれなかったら、今はお互いに如何して暮らしていただろうか?今より幸せになっていたと思うかい。俺はあの時お前に謝ったのだ、俺が謝る事は珍しいことなんだ緊張していたとは言え香港の町の中で殴ってしまった。「悪かった俺についてきてくれ、一緒に外国を見ようじゃないか」お前に謝って、罪滅ぼしに何でも買ってやると妥協したっけ。お前の機嫌が直ってケーキが食べたいと町で買い求め、思い切りケーキを食べた。そのケーキがアタリ腹を壊し二人でトイレに一晩中腹を押さえ通った。おかげで三日間どこにも行けずトイレに通い唸り続けた。あの時抗生物質を持っていてよかったな~。あの時安宿に坊さんの卵がいて一晩中拝んでくれたのを思い出す、彼は今頃どこにいて如何しているかな~。困った時の神頼みというけれどあのお経が聞いたのかもしれない。香港では色々なことが起こったと思う。下痢が治ってやっと香港見学が出来るようになり、汽車に乗りに行ったのを覚えているかい。どうせ日本語が通じないと「終点まで二枚」と切符を買ったとき、ちゃんと二枚の切符をくれたことに驚いた。何だ、香港は日本語が通じると思ったものだ。これも後でわかったのだが「シャテン」という駅が直ぐ先にあり、その駅を終点と聞き間違って切符をくれたのだった、どうりで友達より安いと思った。その切符を持ち汽車に乗り終点まで観光に行った、トンネルでは電気が消え真っ暗になる汽車だった。どこが終点かもわからず乗っていると、乗客が降りるのでそれに付いて友達夫婦と一緒に汽車を降りた途端、国境警備隊が我々に駆け寄り拳銃を突きつけ又同じ汽車に乗れと脅かす。あの時初めて本物の拳銃という物を見たネ~観光に行き拳銃を突きつけられるとは思わなかった。これも後でわかった事なのだが、観光客は一つ手前の駅までしか行ってはいけなかったらしい。今じゃ~考えられない事だ。
  香港を出る時、飛行場までタクシーで行けば良いのに、貧乏旅行のためタクシー代を節約してバスで空港まで行く。思い込みの激しい我々は空港がバスの終点だと思い込んでおり、空港が見えない側の座席に座っていたため空港を通りすぎているのに気づかず飛行機に乗り遅れそうになる。急いでタクシーで空港へ飛ばし、たまたま飛行機が待っていてくれたため助かったが、おかげで乗客の冷たい視線に耐えも飛行機に乗り込むことが出来た。
  あの時は参ったね~、空港が住宅街にあるんだもの、あの頃の香港はビルの間に飛行場がありそこに発着する。知らない人は通り過してしまう。バスも飛行場が終点ではなく住宅街を走り回っている、誰か教えてくれればよかったのに、香港人も日本人も同じような顔をしている。一度通りすがりの人に道を聞いたことがあるのだが聞いた人は日本人だった。日本に居るのか外国にいるのかわからない雰囲気だ。

  *  荷物を上げる
  香港の後タイに行ったんだよな、別にタイに行く予定など無かった。本当の目的地はインドと決めていた。香港で安い飛行機を探していたら、タイランドに行く飛行機だったそれだけの事だったね。「まあ良いか」と、とにかく行ってみようと飛行機のチケットを買ったのだ幾らだったかは忘れたが、あの頃の貧乏旅行者はみんな同じコースを歩いたものだ。
タイに着いて教えられていた安ホテルに泊まり、余りの暑さに水着なんて持ってこなかった我々は、ホテルのプールに下着で泳いだっけ。あんなに暑いのに日本から出てきたばかりで二人ともコートや革靴など持っており、貧乏旅行するのにこんな服装はいらないとメードさんに上げてしまった。メードさんの方が驚き目を白黒させていたっけ。それでもコートや革靴を受け取り貰ってくれた。上げたあとでお前は言ったもんだ、メードさんはこの暑い国でコートと革靴を着るのかな~。
でも服や革靴を2人分上げてしまい、身軽になった事は確かだ。これで我々は小さなバッグ一つずつとカメラぐらいになった、重たい目をして持って居た物から開放され何にか自由になったみたいに感じた。ビーチサンダルを買い求めこれ以来貧乏旅行中は履物と言えばビーチサンダルしかなかったね。記憶では確かヨーロッパに着く前までビーチサンダルだったと思うよ、若い時というのは何も無くても別に構わないものだと今は懐かしく思うよ、アノ若さが欲しいね~。
タイでの食べ物は毎晩掘っ立て小屋のレストランでナシゴレンと呼ぶ焼き飯ばかり食べていたっけ、これしかお前は口に合わず現地の食事で苦労していたね。
俺たちにとって飛行機に乗る時だけがご馳走を食べれる時だった。ビルマに向かう飛行機ではトイレに行ったお前はトイレが見付からずお前は我慢をしていた、飛行機にトイレが無いなんて言葉も話せない俺たちはスチュワーデスに聞くのも恥ずかしく、きっと何処かにあると俺は飛行機の中でトイレ探しをする羽目になった。見付けたのだトイレを。ビルマの飛行機はトイレが木で作られており一見テーブルのように見えトイレに見えなかった、トイレが無いとお前が思い込んだのもわかるような気がする。
飛行機のトイレがチークの高級な家具のように成っていたのでそれを捲ってトイレをするものとはまさか思わない。
  そんなドジをやりながらやっとインドに着いたのだ。
  たいした目的もなく何と無くインドに行こうとビザを取ってきていたのだが、香港やタイなどはビザが必要だとは知らなかった。香港に着いた時は香港人の我々と同じ顔をしたアジア人が英語で話しかけ、ビザは持っているかと聞く。なにを言って居るのかサッパリ分からない我々は、横から日本人が通訳してくれ我々はインドのビザを見せたっけ、香港の税関は文句を言っていた、「これはインドのビザだ」と、そこで初めて香港もビザがいることがわかった。この時点では、船から降ろしてもらえないのかと心配したね。何とか訳のわからない言葉で拝み倒し,トランジットビザが貰えた、それで香港に降りることが出来たのだが、結局香港は下痢のためほとんど見ることが出来なかったのだ。
  貧乏旅行とは汚いものだったね。インドのカルカッタに着いてから観光をするといっても道にウンコは一杯落ちているし水溜りは小便の溜まり場と化しまったく汚かった。お前は人糞を避けるため道路ばかり見て「汚い汚い」と歩いていた。俺は道に寝転ぶ人達に興味を持ち見て歩くために人糞を踏んでは滑って転びそうに何度もなった。ビーチサンダルはまったく良く滑るんだ。人糞を踏んでは道端の小便の溜まり場でサンダルの糞をとろうと洗ったのを覚えているよ。今考えるとあの旅行は我々の新婚旅行みたいなものかも知れないね、「臭い仲」になったのだよ。でもあの道端でゴロゴロと寝転び家なんか無く、食べるものも無い人達を見て居ると、ビーチサンダルを履きティーシャツを着た我々はさしずめ大金持ちのようなもので、人間は何も無くても生きて行ける事を習ったような気がする。
この人達も好きでこんな生活をしている訳では無いが、世界には色々な人達が居る事がわかったよ。道端で生まれ生活し、死んでいく、この人達も同じ人間なのだ我々は幸せすぎるのだと感じた、お前はこの人達を見て何を感じたのか?。
  せっかくインドへ旅行に来たのに皮肉れ者の俺はお前が見たいというタジマハールも見せてやらなかった。
「あんなものは一般の観光客が見るものだ」と言って、人間がゴロゴロ道端で寝転び生活をしている国へ来て、あんな豪華な建物を褒め称えたくなかったのだ。あんな金が有るなら少し道端で生活している人達に回してやれば良いのだ。
どこの国も権力者というのは横暴なものだ。インドでお前に見せたのは、死体を焼いて川に流す儀式や汚い川で水浴をする姿、道端で生活する人達とウンコの山。何しにインドに行ったのだろうね?。インドという国は面白い国だった。もうこんな国は嫌だと逃げるようにインドを離れるのだが、他の国に行くと又何故かインドが恋しく、インドに戻りたくなってしまうのだ。こんな不思議な魅力を感じる国だった。
  もうこんな国は嫌だとネパールに逃げだした時、何日も汽車で揺られ砂漠のような景色の中をろくな食べ物も無く、飲み水が無く汽車の中は人間だらけで身動きも出来ず、何とか人塵を掻き分けトイレに行くと、トイレの中まで何人も人が座っている。その人達にトイレを出てもらいトイレを使うのだが、ここもウンチだらけで汚くて参ったね。
この汽車の中で、確かドイツ人だったと思うが、飲み水が無く死にそうな我々にこの旅慣れたドイツ人がくれた生のニンジン一本、このときのニンジンは美味かった。
お前と俺は取り合うようにして生のニンジンをかじったっけ、あの時覚えたんだ生のニンジンがこんなに美味いなんて。乾き餓えていた喉に水気があり、噛むとかすかな甘味の出る生のニンジン、「何で生のニンジンがこんなに美味いのか」何時でも何でも買える生活をしているとこんな些細な喜びや感激は感じないと思うが、何も無く水も無い状態では生のニンジン一本がこんなにも有り難いものだと知らされた。今でもニンジンを食べる時お前と俺はインドの汽車の中を思い出すのだ、あの時の生のニンジンの味も総てに恵まれた今の生活では味わう事は出来なくなった。
  ネパールに着いた時はほっとしたものだ、気候は涼しくて食い物は美味い、町はインドから比べると清潔で人々は優しい、インドから来ると天国だった。カトマンズーで美味いものを食べ、マリファナを吸って町を観光したっけ。何と無く久しぶりに観光客になったような気分だった、でもしばらくするとこんな観光客的な生活が何となく物たらなくなってきた。
この町に文句は無いのだけれど幸せな生活が退屈な様になんとなく不満になってくる。
  その頃外国人旅行者たちがトレッキングに行くという話しがあり、生まれてこの方山歩きなどしたことが無い俺は、「じゃ~、トレッキングにでも行って見るか」と軽い気持ちだった、お前は軽い山歩きは経験していたと見え自信が有りそうだった。
カトマンズーからポカラへバスで行き、ここからジヨムソンに向け歩き出したのは良いが我々の装備は、タイで買ったビーチサンダルを履き、手提げカバンを一個ずつ持ち、リュックも無い寝袋も無い、カトマンズーで組み紐を買いバックを背中にくくりつける、毛布を一枚ずつ買い求めそれが寝袋である。
まさか我々がヒマラヤの山中を歩くなんて想像もしておらずとにかく歩いて見る。もし歩けなかったら帰ってくれば良いぐらいの気持ちで歩き出す。歩き出して驚いた、山頂に雪を抱いたヒマラヤの山々が遠くに見え歩けども、歩けども少しもヒマラヤの山々は近づいては来ない、目で見た感じでは朝と同じところを歩いているようだった、俺はまだ山と言うには程遠いところなのにバテ気味になる。初めは何でも辛いものだと自分を騙し騙し歩いた、まだ山道でもなんでもない川原のような道を、お前はひたすら歩く、俺も仕方なしにお前の後に付いていったようなもんだ。
あの時はさすがに山歩きの経験があるとお前を尊敬の眼差しで見たものだ「この時俺がお前を尊敬したのが生まれて初めてかもしれない」
この初日は何時間歩いたのだろう、朝から晩まで歩き民家に止めてもらう。この時代、宿など余り無く民家に止めてもらい食事代だけ払うのが一般的だった。一日目でグロッキーになった俺は、お前に恥を偲びここから帰ろうとお許しを求めた。
「何て情けない亭主だ」と思ったことに違い無い。夫婦話し合いの結果出発点のポカラに戻る事に成り民家の人に手振り足ぶりボディーランゲージで帰りのバスは無いのか?と聞く、これまた身振り手振り民家の人の説明では歩いて帰えるしか道は無いと分かる。
今日歩いた道を又歩いて戻るなんて考えただけでもゾッとする、リアルにあの辛さが頭に思い浮かぶ。
そこで俺は居直った「どうせ歩くなら初めての道の方が良い」とトレッキングを続ける事にする。
  ビーチサンダルはヒマラヤの山中には適さないことを発見する。足に山ビルが食らい付くのだビーチサンダルにジーパンの裾をめくり歩いていると山ビルが木から落ちてきてすいつく、それを手でもぎ取り千切りながら歩き続ける、ヒルを足から外そうとすると足に食らい付いたヒルが頭だけを残し千切れる、山ビルもタマのご馳走と喰らいつき離れないが中には上手く取れる奴もある、お前も俺もあの時は脚を血だらけにして歩いたな~。トレッキングと言っても道が付いており、地元の人ははだしで籠に重い荷物を入れ額に紐を掛け担いで歩いている。我々が一週間掛かるところを三日で歩くと言うそれも裸足である。ビーチサンダル姿の我々は地元の人達に比べて豊かなものだ。
日本から来た人はもっと豊かでザイルにピッケル登山靴姿でトレッキングの道を歩いている。
でも、さすがはヒマラヤ山中トレッキングと言っても4000メートルぐらいのところまで歩く、寝袋の無い我々は震えながら土間で寝る。民家に泊めていただくのだがベットなど無く土間で寝る、慣れない我々には非常に寒かったのを覚えている。霜の降りた朝にビーチサンダルで朝飯も食べずに歩く日々だった。
朝飯代が無かったのではなく朝飯や昼飯を食べるとみんな吐いてしまうのだった。今考えるとダイエットには持ってこいだと思う、太っている人にはぜひ勧めたいね。
  どこまで行くのか見当も付かなかった、毎日歩くのみ、途中一緒に歩いたドイツ人が勧めるマリファナをぷかぷかやりながら歩くと雑念が消え歩く事に集中でき辛さが柔らいた。でもマリファナは余り好きでもなかった。ネパールではマリファナが雑草のようにそこら中に生えており、農作業の爺さんが土手に座りプカプカやっていた。お店でも売っていた、日本から来るとマリファナがお店に売っている事自体驚きだった。一度だけ自分たちでマリファナを買ったことがある、でもやっぱり好きにはならなかった俺は酒の方が好きだったな~。マリファナが好きで朝から晩まで吸っている人達もいたが参加する気にはならなかった。又、毎朝起きては朝飯も食わずにヒマラヤ山中を歩き続けたのだ、ジョムソンという所に温泉があると聞き、そこまで行こうと歩き続ける。
ヒマラヤ山中の温泉とは乙なものだとがんばって歩いた。この頃には体も慣れてペースは遅いが何とか普通に歩いていた。
なんといっても地元の人達は裸足でスタスタと歩いていくのだから、追い越して行くたびに「ナマステ」と挨拶を交わし消えてゆく、我々も音を上げるわけには行かない。
あの時思った事はヒマラヤ登山の人達はシェルパに金を払い連れて行ってもらうのだと感じた。シェルパは頂上には登らないがシェルパだったら簡単にヒマラヤぐらい登れると感じたものだ。もう一つ、俺たちは「何てひ弱なんだ」としみじみ文明人?の退化した姿を感じたものだ。
  無事温泉までたどり着き入浴としゃれ込んだ、一週間以上フロなど入っていないので有りがたかった、ところが昼間は温水が熱くて入れない。外気温が下がる夜にならないと入浴に適した適温に下らない。ひとりのヨーロッパ人女性が無理をして温泉に浸かりのぼせて倒れた。よほど温泉に入りたかったのだろう、我々もヒマラヤ温泉に入りたかったが手をつけただけでとても湯に浸かれないと諦めた。ガンジス川の上流と思われる、川原にある露天風呂は最高の雰囲気であり、あのインドで見た死体を流すガンジス川の上流とは思えない神秘に包まれた川原に露天温泉の湯煙を上げていた。夜になり外気温が下がった時にまた入りに来ようと宿に戻る。
  今考えるとヒマラヤ山中を歩けた俺たちは幸運と思わないか?。もし途中で止めていたらこんな思い出は残らなかった。
俺はヒマラヤ山中で腹を壊したことがあり野糞に行った、しゃがんでいたら農家の人に追われた牛が目の前に現れて参ったよ、牛の奴も俺が座り込んでいるので珍しいのか?、鼻先まで来てウンチをしているしゃがんだ姿勢の俺に顔を近付けに来るんだ。これには困ったね~、片手で「シィ~、シィ~」と追い払うのがヤットであれ以上迫ってきたら俺は、自分のウンチの上に転ぶところだった。ヒマラヤ山中で牛が現れるとは思いも付かなかった。あんな所でも人々は生活しているんだと教えられた。

  *  インドに戻る
ヒマラヤのトレッキングを終わり、何と無くインドが恋しくて又インドに戻る。インドに行くと腹が立ちもうこんな国に居るものかと出たくなる「不思議な国だったな~」それで又パキスタンを通りアフガニスタンに向かう。今だったら戦争の関係で絶対行かないと思うが,あの頃も時々国境封鎖していたらしかったが知らないとは恐ろしいもので、この国境でライフルを突きつけられたり脅かされたりしても、言葉がわからないことを良いことにアフガニスタンに着く。この頃でもまだまだ日本を引きずっており、甘えの多いお前は、日本人旅行者に簡単な事を何か頼み「幾つになったのよ~、自分の事は自分でしなさい」としかられたんだ落ち込んでいたな~。
叱ってくれる人というのは良い人が多いのだよ、褒めてばかりいる人は何故か裏のある人なんだ。俺をみろ「お前を叱ってばかり居るだろう」俺は本当は良い人なんだ。
  確かアフガニスタンで飛び出しナイフを買ったんだ、町を歩いていると子供たちが拳銃を売りに来たりもする所だった。以前から飛び出しナイフに憧れていた俺は、日本では買えない飛び出しナイフを買い嬉しそうにボタンを押してはナイフの刃を見せて喜んでいた。こんな貧乏旅行にはどんな危険が待ち受けているかわからず、護身用のためでもあったのだ別に危害を加えるために買ったのではない。
  その後何故かバーミヤンに行って見ることになる。何時もの事で別に旅行計画など持たない我々は誰かが良いとこだ、面白いから行って見なさいと言われると好奇心がむらむらとしてそこを旅することになる。
バーミヤンに行くにはバスなどなく、サバクに近い赤茶けた道を小型トラックの荷台に乗り埃りだらけになった。一日中車は走った。今は壊されて無い赤土を削って作った大きな仏像が異様な感じを与えた。その周りには無数の穴があり、それがここの人達の家だと教えられた、モグラやウサギと同じように穴倉に住んでいる人々を理解できない頭で不思議に思ったものだ。今考えて見ると、あの環境では穴倉に住むのが一番涼しくて暮らし易いように思う。我々夫婦もあの環境に住むと穴倉に住むだろう、日本人の家はウサギ小屋と呼ばれているでは無いか。あの山というか丘というかその絶壁に彫られた仏像を眺め、周りの丘を歩き回る。
仏像の向かい側の丘の上に一軒まともそうな建物があったので覗きに行って見る。そこは兵舎らしく目つきの鋭い男たちが10人ぐらいだったか座っていた。お茶を飲みに来いと誘われた我々二人は嫌とも言えずお茶をご馳走になる。しかし男たちのその鋭い眼に驚き何か聞かれて居るのだが返事も程ほどに、お茶を一気に飲み干し逃げるようにお礼を言って逃げ帰る。宿に戻り二人で無事を喜ぶ。
  この宿で一緒になった映画スターみたいなイギリス人のいい男がいた。さすがの私も負けそうなぐらい良い男で、香港の大使の息子だと名乗った。アフガニスタンを旅行後香港に行くとの事だった。この良い男は男でも惚れ惚れするほど垢抜けていてアフガニスタンのデカイ宝石を身に付けると映画スターのように似合っていた。世の中にはこんな良い男もいるのだと嫉妬したものだ。カブールで同じ宿に泊まったのだが、次の朝にはどこかへ消え、まったく映画のシーンのような話だった。
  アフガニスタンはそれなりに刺激があったのだが、何故か又インドに戻る。
今度は誰に聞いたのか覚えていないが、ボンベイから船でアフリカのモンバサまで安い船が出ている事を聞き出す。
面白そうだとニューデリーよりボンベイへ向かう。インドでヒッチハイクをして見ようと試みた。インドの砂漠の中をトラックを捕まえ旅を続ける。
このトラックの運転手が夜中サバクの真中でトラックを止め、居眠っていた私にトラックの調子がおかしいので、降りて後ろを見てくれと言う。真っ暗なサバクの真中でトラックを降りたら、走り去られてしまうと瞬間的に感じ取り、「嫌だ」と断る。
どうも仕草がおかしい。自分で降りて調べるべきだ、自分は降りずにエンジンを掛けっぱなしで私に降りてみてくれと言う。「嫌だ」と降りずにいると仕方なしに運転手が降りていく。この間に横に座るお前にアフガニスタンで買った飛び出しナイフを渡し、もし俺が置き去りにされたら、このナイフで運転手の太ももを刺せと念を押す。決して腹を刺すんじゃ無いぞ、間違ったら死んでしまう、足を刺すのだと言い残して私も手伝いに降りる。この運転手は女房を連れ去り人買いに売るつもりだったと思う。
もし運転手が逃げようとしたら直ぐにトラックに飛びつき、女房が運転手の足を刺して車が止まったら二人で逃げる予定だった。運転手は車を見回し仕方が無いと又二人を乗せ走り出す。その時代旅行者の女性が連れさらわれる話が真しとやかに旅行者の間で流れていた時でもあり、もしこの運転手がお前を連れ去って行ったとしたら、お前は本当にこの運転手の足を飛び出しナイフで刺すことが出来たと思うかい?。この運転手は考えを改めたと見えて助かったが、我々も又問題を起こさなくてよかった。
この時代のインドではヒッチハイクなどと言うものは、考えも付かない時代なのでどんなことが起こっても仕方ない事だった。
俺は反省しているもうこんな危ない事はお前にさせないと。
しかしこの時、お前は飛び出しナイフをトラックに落としてきたのだよ。
  まったくインドは汚いしイライラする国である。行かなければ良いのに又行きたくなるおかしな国だった。人間臭いとでもいうのか人間の根源的生活や考え方が我々を又インドに引き戻す。
  無事ボンベイに着き、やっとアフリカ行きの船に乗れると思ったら、ニューデリーで予約して金まで払っているのにまだ金を要求する、このときも頭に来たね~、船会社の事務所で大声を張り上げ切符がもらえるまで帰らないと談判する。片言の英語を使っては負けるので日本語で巻くし立てる、喧嘩をした時は日本語に限るし又日本語しか出てこない。頭に血が上ったら幾ら英語で文句を言おうとしても日本語が先に出てくる。この時点ではインドで喧嘩をするのにも慣れておりわめき散らす。事務所中聞こえるように騒ぎ立てたので相手も仕方なしに切符をくれる、当たり前である。ニューデリーで金を払ったのに同じ会社のボンベイでは切符をくれないと言う。金を返せと言っても領収書を見せてもボンベイで払って無いと金も切符もくれない「これは詐欺だ」。
何時間揉めたっけお前と俺は一生懸命説明して切符をもらおうとしたのに、金をよこせと言うばかり「頭にきたよな~」
揉めにもめ騒ぎに騒ぎ、俺たちも切符など貰うのをあきらめて文句を言ったのだ、すると向こうがギブアップして船の切符をくれたっけ。「当たり前だよな~」二人分も金を払っており切符をくれないなんておかしいよ、まったくインドは頭に来るところだ。
まったくインドは暑いし体力と気力がいる所だ。

  *  旅先で
やっと就航する時が来た、これでインドと縁が切れる出たり入ったり合計四ヵ月以上インドに居たことになる、初めの計画では同じところにしばらく居てみようと思っていたが、ビザの関係上いろんな国へ行かざるを得なくなる。
インドのビザが切れそうになり何処か他の国へ行かざるを得ない。
船が就航するとなるとほっとする。我々は例により一番安い船底に席を取る、俺もお前も何も寝具などもっていない、ベッドはマットもない板の間、一番安い船底は板敷きの二段ベットになっている。ネパールで買ったブランケットを引き寝るのだが,つるつる滑って仕切りの金網にしがみ付いて眠る。船は一万トンもあるのに折からの偏西風とやらで揺れるは揺れるは、金網にしがみつき眠るのだが振り落とされそう。安いので文句は言えないが、船底は船酔いの人達のゲロで一杯、歩くとぬるぬる滑る。船底の食事は毎日カレー、ゲロはそこら中カレー、食欲など湧くものではない。
  お前はアルゼンチンの女性のアイディアーで船酔いが激しいと、船上の医務室でふかふかのべットで眠る事に成功する。
俺は相変らず船底で金網にしがみつき眠る日々だった。海が荒れた日には船底まで海水がなだれ込み、乗客が力をあわせ船底のハッチを閉めて押さえ一晩中お祈りしていた。この船は旅行者の間では奴隷船と呼ばれている船で一航海で死人まで出ると言われている船だった。船に弱いお前はよく我慢が出来たと思う、就航したらもう逃げ道がなく仕方無いかもしれない。
  我々貧乏旅行者は寝るのは安い船底だが食い物は上のクラスを頼んでいた、毎日ゲロと同じのカレーではたまらないと、イギリスフードの食事だった、毎日のようにフィッシュアンドチップスが食卓に上がる、新鮮な魚が食べられると不思議に思ったら、一万トンもの大きな船から網を流し魚を獲りながら走っていたのだ。それを見つけて以来毎朝この網を船員が引き上げるのを見るのが楽しみでデッキに駆けつけたものだった。インドの船では安い客は船が走り出すと高い客のいる上階には行けなくなっている、我々の場合は食事を上の階でする為に、食事の帰りに鋭く船室のフロに入って帰る。これを船員が見つけどこの部屋だと調べるが、我々は適当な部屋の番号を告げ船員が調べに行くうちに船底に逃げ帰る。さすがは奴隷船のあだ名が付くほど船底と上階の客室は鉄格子で仕切られている、我々には特別に食事の時間だけ鉄格子が開かれる。
この上階に我々の二倍もの金を払い泊まっていた同じ旅行者の日本人がいた、彼はインド人の嫌がらせを受けお前はこの階に泊まって居る奴ではないと追い出される。何度も嫌がらせをされるので最後には船底に来て寝泊りしていた。
あの時はお前は医務室の一番高級な部屋で泊まったことになる。羨ましかったな~、あの時は俺たち別居生活のようなものだった。俺も船酔いすればよかったのだが船酔いどころか他人の分まで食事を食べていた、みんな船酔いで食べられないと言うほどデリケートな人達が多かったんだ。
  ボンベイを離れて12日目だった、水平線彼方にアフリカ大陸が見えたのだ、感激したな~、平たくてズ~ッと水平線と平行に横たわっていた陸が少し霞んで見えたっけ。その頃俺たちのアフリカのイメージは、動物園と野生動物、槍を持った現地人ぐらいのイメージしかなく陸に降りたらライオンに噛み付かれるぐらいの浅はかな知識しか持ち合わせていなかった。
当たり前の事だがモンバサ港に着いたらそこに住む人間は黒人だが我々と同じ普通の生活がそこにあった。
インドよりストレスがなく住み易そうだったのが第一印象として残った。バスで内陸部を行くとキリンやシマウマ、鹿など野生の動物が見られ、アフリカだと再認識するが一歩町に入ると人々の生活があり黒人の町ぐらいのイメージだった。
  「アフリカって思ったより良いとこだと感じなかった?」。お前は叫んだっけ「タダで動物が見られる」ホンとだよな~田舎に行くと野生動物がほんとにいるんだもの。
モンバサからラム島に行った時、マイクロバスが故障したのを覚えているかい。あの時運転手がライオンに襲われるから民家に入ってくれと言うんだ。幾らアフリカでも冗談だと思った,でも彼らは本気で言うんだ、仕方が無いので車が直るまで民家に入った。民家と言ってもスワヒリ語も話さない本当の地元民と言うか現地人なんだ、これには参ったね。そこで何か酒のような物を出され、ためしに飲んだっけ、濁酒のような味がしてなかなか美味かったのを覚えている。造り方を聞かなくてよかったような気がする。きっとあれは穀物を口の中で噛みつぶし壷に入れて発酵させた酒だと思うよ此れを想像したらキット飲めなかったね。
お前は飲まなくて正解だった。
  我々が行ったアフリカはケニヤとタンザニヤ、マダガスカルだったけれど、どこもインドと比べると良い所で、気候はよいし食べ物は美味い、適当に未開地があり文明も発達していた。でも、良い所と言うのは余り覚えていないものだと思わないかい。お前との人生も苦しかったことや難しくて辛くてそれを乗り越えた時の事を今でも覚えているんだ。
旅も同じだと思うんだ、体を動かし苦しみ成し遂げた時の事を覚えているものなんだ、その時得た苦しみはとっくの昔に忘れ苦しみの中の喜びだけが心のどこかに残っている其れが我々の財産であり一生の思い出なのだ。
安い国ばかり回ったとは言え旅行資金が尽きてきた。アフリカにいるときからヨーロッパで働く事を考え始めた。幾ら何でもアフリカでは旅行資金を稼ぐことが出来そうではなかった。
ナイロビからロンドンに飛んだ。季節は11月の終わりごろだったと思うが、あったかい国ばかり旅行していたので急に寒さを我慢出来なくなってなけなしの大金をはたいてお互いにコートを買ったっけ。一目で気に入ったウサギの毛のコートを買ったお前は店を出て途端直ぐに気が変り交換してくれるように頼みに行ったんだ、店員が言うには一度着て店の外に出ると中古品だといって替えてくれない。もめたねあの時は。何時間も店で粘ってやっと交換してくれたんだ。インドやアフリカでは平気だったがロンドンではちぐはぐだった、皆がじろじろ見るのだ荷物も相変らずカバン一個ずつで、俺なんかアフリカの服を着ていた。ちぐはぐだったんだ。コートの下はぼろぼろの服だったね。そのまま仕事を探しにスイスまで行った時にはもうほとんど持ち金はなくなっていた。
食うものもなく何時も小麦粉を固形スープの素を溶かした中に落とし団子にして食べていた。ヨーロッパの冬は寒くてユースに泊まらないと凍え死にそうだった。たまに贅沢をしようと卵を一個スープにいれ二人で食べたっけ、何て貧しく美しかったことだろう。この時は特別二人共お金の無いことになんとも思っていなかった。若さがあったのだ、二人でお金の無い貧しさを楽しんでいたね。インドで貧しさの極致を見て来た為に俺もお前もこのぐらいの貧乏はなんとも思わなくなっていた。今だったらどうだろう?今路頭に迷ったらお前は笑顔で笑えるかな?
「俺は居直っても笑いたいね」今の世の中食えなくて死ぬ事はないもんね、食いすぎて死ぬ事の方が多いくらいだ。
  とにかく仕事を探し歩いてバーゼルのユースにたどり着いたんだ。ユースの管理人が俺たちの格好を見て思ったのか,
親切にも言ってくれた「材料代を払うから食事を作ってくれ、一緒に食べよう毎日食事を作ってくれ」ユースのアイロンがけを手伝ってタダで泊めてくれた、我々は何も言わないのに親切に仕事をくれたんだ、嬉しかったね、毎日スープだけの生活からまともな食事が出来るようになった。それだけじゃないんだ、一緒に泊まっていたマレーシア人たちが俺たちにチョコレートを一杯くれたんだ。彼らの方が貧しい国からやってきたのに我々にチョコレートを段ボウル一杯くれた、これも嬉しかったね。ポケットに一杯詰め込み毎日ライン川のほとりで食べたっけ、子供たちにあげても食べきれなかったな~。後でわかったんだが、マレーシア人たちが俺たちが貧しそうに見えたからユースの自動販売機から盗んだチョコレートをくれたんだ。驚いたね~、このときは世話になっているユースのチョコレートをみんな食べてしまった後だもの、どんな顔をすれば良かったのか、いまさら返しに行くわけにもいけないし。
この時に一緒に泊まっていた人のアクセサリー売りを始めて手伝ったんだ、町のどこかでアクセサリーを売ると言うので、
時間が一杯あった我々は面白半分について売りに出掛けた。売っているところにポリスが現れ、俺たちを誘った彼は逃げてしまった。まったく逃げ足の速いやつだった。今でもあいつの逃げた姿を思い出す。ポリスが来てもなんとも何事もなかったのに逃げ足の速いのには驚いたものだ、きっと何か悪い事でもしていたのかな~。そんなやつには見えなかった、彼には色々な事を教わったもんだ。
  この直ぐ後でフライパン工場での仕事が見付かった。チョコレートを貰ったマレーシア人たちと同じ会社だった。仕事を始め下宿をしたまでは良かったんだがフライパン工場の給料日まで日にちがあり、ついに手持ちの金が一銭もなくなってしまった、下宿して又スープと小麦粉で食い繋いでいたんだがそれさえも買えなくなってしまった。俺たちが一番貧乏した時だったな~、マレーシア人に5000円ぐらい借りたんだ、彼らは気持ちよく貸してくれた。俺の人生で初めての借金かもしれない?給料日に返済する予定でそれまで5000円も有れば食い繋げると思ったんだ。でも餓えていたんだね~、スーパーに行って5000円分一度にみんな使ってしまった。
なにを買ったのかは覚えて居ないが、ワインまで買い込んだ事は覚えている、多分チキンの丸焼きを買ったと思う。
何時もスーパーに行っては横目で見ていたあのチキンの丸焼きを、いつかきっとあの丸焼きを食べるんだと心に決めていたのだ。貧しかったね~、でも美しかった。おかげで直ぐ又スープと小麦粉の毎日だった。「青春の思い出だ?」
  フライパン工場で働きだした時、この工場にはスイス人の工場長が一人と後はイタリア人やフランス人が多かった。我々も外人労働者だったがスイスのバーゼルはイタリアとフランスに近い国境にあり、外人労働者がほとんどだった。
日本人から見るとこの人達は貧しい人たちで、スイスで働く事により高給が得られる。
この人達がある日、我々に古着を一杯くれた「覚えているかい」。何で古着をくれるのか私は解らなかった、着替えなどあまり持たない我々にとってそりゃ嬉しかった。古着でも我々から見ると新品に見えたもんだ。古着を貰い下宿へ帰って自分の来ているティーシャツと比べて初めてそのくれた意味が分かった、俺の着ているティーシャツはボロボロで穴だらけ空いている面積の方が繋がっている面積より多かった。お前はそのTシャツを毎日手で洗ってくれたっけ、そんな愛着のあるTシャツを着ている俺は自分ではまともな格好をしていると思っていた。
我々は最近までインドやアフリカで過していたし、道端で生まれ死んでいく人達を見て旅行しており、行く先々で現地の服を着ていた。このTシャツは私にとってはよそ行きの服みたいなものだった。小さなバックには下着が少しとTシャツの替わりが一枚、洗面道具、少しの食い物ぐらいしか持っていなかったと思う、お前も同じくらいの荷物だった。
  スイスに着いて以来周りの人が余りにも親切にしてくれるので、不思議に思っていたら我々二人は乞食みたいな格好だったのだ。発展途上国で貧乏旅行していた二人が飛行機に乗りヨーロッパに着いたんだ。総てがカルチャーショックだった。
でも若かった俺たちは何にも動じなかったし、怖いものもなかったそして幸せだった。「だって何も無くす物が無かったもんな~」。
  このフライパン工場で三ヶ月働いたんだ。でも下宿にはシャーワーも風呂も無かった、これには参った。仕方が無いのでフライパン工場の流し場で毎晩囲いを造り水浴びをして過した。下宿の爺さんとばあさんは一週間に一度位どこかのフロ屋みたいな所に通っていた。俺はここで皆が香水を体に振り掛ける理由が解かったような気がした。ヨーロッパは水が貴重でフライパン工場で働く人達も水を飲まずビールを飲みながら働いていた。昼食にはワインなんか飲み働くのが信じられなかった、水より安いワインやビールを飲みながら仕事をする。
ある時プレスの仕事をするでかい男がビールかワインの飲みすぎで旋盤に顔を突っ込み怪我した事もある。こんな仕事場なので仕事仲間は和気合い合いと楽しかったのを覚えている。
  スイスで三ヶ月働き貯めた金を持ってロンドンで安い切符を買いカナダに飛んだ。カナダは広かった。モントリオールからバンクーバーまでヒッチハイクをしたんだ距離6000キロ、なんて広い国だと思った気が遠く成る。この国でも働こうと思ったんだが闇労働だしこの国には将来住みたいと思っていたし、ここでもし掴まり悪い記録が残るとまずいので、又ロンドンに舞い戻る。先進国では資金が直ぐに無くなり、又仕事を探さ無ければいけない。この頃は何時もぴいぴいしていたし何とかまとまった金が欲しかった。スイスでアクセサリーを売ったとき、ポリスが来て一番に逃げた奴、彼が俺たちにニューヨークに行けば大金になると教えてくれたんだ。こいつは気が小さいくせに物知りで外国生活が長いとみえ話しだけは大きいんだ、口は上手かった、コイツの話しはみんな聞き惚れていた、騙されたやつらも多かった。お前もこいつに金を貸したことがあったね、借りた金を返さないことで有名な奴なのに何故か憎めないところがある。はじめからヤルつもりで金を貸してやった。ニューヨークで偶然再会した時、貸した金を覚えていて不思議にも返してくれた。何故か俺たちだけには本当のことをいう奴だった、今は如何しているだろう懐かしいね。
  それでニューヨークに行こうと決めたんだが金が無い。誰かがアイスランドで漁船の仕事があると話す、其れではアイスランドに行って見よう、それでも金が足らないのでヒッチハイクで北欧に行く、ノールウェイで少し働きその金でアイスランドに飛ぶ。漁船の仕事にありつくと一ヶ月100万円ぐらいになる話しだった。やる気満々でアイスランドに着くと話しだけで仕事なんか無かった。又町をさまよう事になる。やっと見つけたのは鱈の首切りの仕事だった、お前も首を切った鱈を床に並べ塩を掛ける仕事をやった、ここで何とかアメリカのビザを取って飛行機賃を稼ぎニューヨークに行きたかった。
  旅で知り合ったアメリカ人夫婦に手紙を出し、アメリカにぜひ来いと言う偽の招待状を書いてくれと頼む。
彼らは快く偽の招待状を書いて送ってくれた。招待状には「アメリカでの生活費は総て我々夫婦が面倒見るからぜひアメリカに来い」と書かれてあり、その招待状をアメリカン大使館に持ち込み、ビザを取得する。
しかしまだ、飛行機券を買うほどの金はなく安い給料で働く。毎日毎日鱈の首を切り、干し魚を作る。鱈の頭と時々混ざってくるヒラメは商品にはならないので貰って来てはスープや刺身で食べる,後はアイスランド政府が援助するジャガイモとミルクが毎日で此れが一番安くつく食べ物だった。アイスランドは名前の通り冬になると一面氷の世界になる、グリーンなど少しも見られない羊もコケをかじっている。食べ物が無いので輸入に頼っている。そして総てが高い。だから国が援助してジャガイモとミルクだけ安くなっている。
だけど温泉の湯を利用した温室で作られた少しの野菜はあった。われわれが寝泊りしていた工場の一角の部屋も温水が引かれ、部屋ではいつもティーシャツ一枚だったね。
  粗食に耐え給料をため飛行機代が出来たと思うと、インフレーションで値上がりして飛行機の切符が買えない。又もう一週間働く、これを何回か繰り返しやっとニューヨークまでの切符を買うことが出来る。往復の切符を持って無いと入国できないので、片道は捨てる予定である。
  今考えて見るとヨーロッパでもよく我々夫婦は仕事が見付かったものだ、俺たちは夫婦者で信用が出来たんだ。行く先々で仕事が見付かった。でも給料は安かった。一番最初に見つけた仕事はスイスのスキー場だった、俺たちはスキーが出来ると喜んでオーストリヤとスイスの国境の山の中で働いた、スキーが出来る約束だったのが、足を折ると仕事が出来ないとソリしか貸してくれなかった、給料は約束より安いし、一緒に働いていたイスラエル人だけ同じユダヤ人だったせいでえこひいきして我々ばかり働かされた。文句を言うとパスポートを取上げて逃げられない様にされていた、まるで蛸部屋だった。
大晦日の夜客たちとドンちゃん騒ぎをして翌朝オーナーに仕事を止めると言ってやった、勿論給料もくれなければパスポートも返してくれないので、そのまま山を降り警察に行ったんだ。警察が交渉してくれパスポートを貰う事が出来た、給料は幾ら貰ったのか覚えていない。多くの人にジューリッシュは嫌われるのが分かるような気がする。
  その後がバーゼルのフライパン工場、ここはみんな良くしてくれ楽しかった、次に働いたのは,ノールウェーの山の中
ここはオスロの職安で何と無く仕事を聞いたら、お弁当代とバス代をくれ見て来いと仕事場に送りだされたんだ。着いた所は
湖の辺にあるホテルでこんな所に泊まりたいと思うような場所だった。面接すると仕事はシーズンの外れになっているが、日本人の団体が来る予定になっていると言いそれまで居てくれと頼まれる。ホテルの一室を与えられ、三食昼寝付き
毎晩従業員たちが集まりパーティーを開いて時間を過す。俺は湖で鱒釣りをしてたまに訪れる客に鱒を提供する。
体がなまるので毎朝ジョキングをしたり、お弁当を持って山歩きもしていた。これで安いとは言え給料を貰っていた。
1ヵ月半ぐらい居たかな~静かで良い所だった。
  その後が、アイスランド鱈の首切り、ベルトコンベアーに載せられた大きな鱈の頭を切り取る仕事。鱈のギロチン、鱈にうらまれそうな仕事だった、冬の寒さに負けずよく働いたものだ、お前もがんばった、アイスランド人なんかウオッカをチビリチビリやりながら働いていた。干してある魚をナイフでチョイと切り取っては口に運びグイとウオッカを飲み込む、寒さでカロリーを消耗するためか?、チビチビやりながら働いていた、我々は酒も飲まずに飛行機代をセッセと溜め込むのが目的だった。
  俺が一度胃痙攣を起こしたことがある、別に卑しいことをして胃が痛くなったわけではないがあの時は苦しかった。アイスランド語など話せないお前は英語と片言のアイスランド語で俺を医者まで連れて行ってくれた、医者に腹を抑えて痛い痛いというしかなく、アイスランド語で「痛いって」なんていうんだろうの世界だった。直ってよかった 貧乏旅行の間あの時ぐらいしか医者に行かなかったように思う。予防注射は別として、普段健康なものが急病になったりすると驚くな~、助けてもらえる人もいない外国だもの。

  *  ニューヨーク
アイスランドからニューヨークのケネディー空港に着いたんだ。税関を通る時は何時もドキドキする。一度ドイツの国境で入国拒否をされたことがある。この時はイギリスで買ったばかりの新品のコートを着てヒッチハイクをしており,金も無くなりそうな時でちぐはぐに見えたんだろう。確か5万円ぐらいしかなく「ドイツの金で幾らだ」と税関が聞くので適当に多く言ったところ、ヒッチハイクで乗せてくれた観光バスの運転手が、親切にも本当のことを税関に説明してくれ金額が少ないことがばれる。
何時も国境では日本円が桁が多いため、金が無くても桁数が多く一見金が有るように見えていた。金が無いと旅行者は入国できない、観光客として入国する為所持金を調べられる。お前も俺も新品のコートを着ていたので、コートを脱がない限り金が有りそうに見えたんだ、その俺たちがヒッチハイクなどしている何ておかしいと思ったんだろうな~、結局入国拒否され追い返される。仕方なしに今度は同じ国境を汽車で越えることにしたんだ、新品のコートは着ているし普通の旅行者に見えると思い、これがまんまと成功して無事ドイツに入国できたこんな経験があるため、ニューヨークではオドオドしていた。
だってニューヨークには働きに行ったんだもの、偽の招待状を書いてもらい一年間働くつもりでニューヨークへ降りた。
その頃のケネディー国際空港では長い廊下を歩いて税関のところまで行くんだ、壁には「やばいものを持っていたらここで捨てなさい」何て書いてありゴミ箱が置いてある、一種の心理作戦だ、これを見て動揺する奴を壁の向こうから見ているんだ。ゴミ箱には誰もヤバイ物は捨てなかった。俺たちは「アメリカ見学をして友達の家に遊びに行くのだ、一ヶ月ぐらいアメリカには滞在する」税関で嘘を言って無事入国する。
この頃のアメリカでは掃除婦をして居ても、休暇で日本へ遊びに行けるぐらいの生活のレベルが違った。ここで働いて見た事も無い金を稼ごう何て考えたものだ、一年間はがんばって働こうと決めていた。
マンハッタンに着き教えられていた安ホテルに宿を取る。こんな所には必ず日本人がいるもので現地の情報が得られるものだ。
最初の情報は、俺たちが泊まった部屋はついこの間黒人が腹を切られて殺された部屋だと教えられた。慌ててフロントに行き部屋を変えてもらう。次の日から飛び込みで日本レストランに仕事を探しに行く。運良く直ぐにお前は仕事が見付かる、それもニューヨークで一番高級な日本レストランだった。俺も仕事は有ったんだが、一緒に働くと止める時には働き手を二人無くすと言う理由で他を探す、直ぐに俺のほうも仕事が見付かる。ここでまとまった金を稼ぐため一年間がんばった、お前は何故かソーシャルセキュリティーカードがもらえる。
これで公に働けるが俺の方は取れなかった。俺は相変らず闇労働、時々移民官の調べが入る、見付かると国外退去になってしまう。調べが入ると情報が入ると裏口から逃げ出し映画を見に行く、この場合は公に休みがもらえるようなものだった、日本レストランに働く労働者は旅行者が多く、調べが入ると分かるとサッと従業員がいなくなる。大体休み時間が多く何故か情報が入るようになっていて職場を逃げ出しては映画を見に行く。
仕事柄俺はお前のレストランまで毎日のように夜中に迎えに行く。夜中のニューヨークは危険で毎日タクシーを使えない俺達は、夜中の町を歩いて安ホテルに帰ったものだ。この頃のニューヨークでは町の歩道を歩く時、ビル側に寄ると手をつかまれビルのへこみに連れ込まれ金を取られる。車道側を歩くと車に引きずり込まれ連れ去られる。24時間パトカーのサイレンが切れる事無く、本当に道路で撃ち合いが起こるところだった。映画以上に危険で面白く刺激のある町だった。
夕涼みがてらホテルの前で座って見ていると5分間に一回ぐらい強盗が起こりポリスがそれを摑まえる。周りで見ている者は助けるわけでもなく見物している、止めに入ったら殺されるのはこの方だ。
  ニューヨークではいろんな物を見たな~、金、金、の国だった、俺の旅行中で印象に残ったのは、インドとニューヨークだった。インドとは反対の意味でニューヨークは凄かった。一言で言うと金が総て金で何でも買える所、こんなイメージのところだった。一年間がんばって金を貯め込み又旅行を始めようとしたとき、一年間も真面目に働いたので信用が出来ており、ニューヨークに住まないかとお誘いが何人かから有ったがやっぱりこのニューヨークには住む気には成らなかった。
永住権も取ってくれると声が掛かったが断った。今考えるとやっぱり止めてよかったと思う、世話になったコック長がハドソンリバーで首を吊って死んでいたと日本に帰ってから見た新聞に載っていた。なにが起こっても不思議ではないところがニューヨークである。
  とにかく一年間真面目に働いてお前は税金まで返してもらい俺たちが持った事の無い金が出来た。「どのぐらいだ?」
あの頃は1ドルが300円の時代だ、価値としては日本円で何百万から一千万位かな~、まあとにかく俺たちには大金だった。この金を持ってロンドンに飛んだんだ。一生懸命働いたしこの辺で休みたかった。
ヤット溜まった我々にとって大量の金を目の前にして一度この金を思いっきり使ってみようではないかと二人で意見が一致したんだ。ロンドンで何処かノンビリと過せる所を探した、地中海の島に行ってみようと意見が一致する。イビサ島で三食昼寝つき、夜はホテルのフラメンコダンスにワインの生活。リゾートホテルに泊り込み毎日海に潜って海栗や海産物を取りワインを飲む、食事時間はホテルに帰り食事する。こんな生活を一ヶ月過す。
ホテルの従業員たちとも友達になり一緒に海に潜りに行く、彼らはわれわれのことを不思議がり何の仕事にしているのだと問う、きっと悪い事でもしていると心では思って居たんだろう、そう思われても仕方が無い一ヶ月もリゾートホテルに居たのは我々と従業員ぐらいな者だった。
ニューヨークで稼いだ金の多くは、地中海の休日とニューヨークからロンドン、ロンドンからニュージーランドまでの航空券とニュージーランドで買った中古車に多くを使った、金を使う経験が出来たのもこのときが初めてだった。「金を使うのも面白いと思ったのも事実である」
  ニューヨークで金を稼いでから、俺たちの生活は小銭にはぴいぴい言わなくなった。何故だろう?
大部分を地中海で使ってしまったのに、金には困らなくなった。金を大量に使ったことで自信みたいなものが付き、金とお友達になったのかもしれない。「あくまで小銭という名前の友達だが」。理由は分からないが小銭には困らなくなった。
お前は以前から小銭には困らない羨ましい性格だった。俺は小銭にも困った時でもお前は何時もどこかから小銭が出てくる。
金なんて使って見なければ価値なんて分からないものなんだ、だから何時もピイピイ言わなければ行けない。今考えても金を使った経験が無いから金の使い方がわからず金の方から離れて行くのだと思う。
  ロンドンからニュージーランドに来て車を買い求め釣りばかりしていた。お前と知り合ってから「俺が連れて行くところは釣りばかりだ」と文句を言っていたことを思い出す。初めてのデートも釣りだったと思う、天竜川の河口に投げ釣りをしに行ったんだ。「グチという魚,イシモチ」を釣りに行った、それ以来お前は釣りに行くと「ぐち」を言うんだ。釣りが好きな俺はいろんなところに釣りに行ったな~、お前は何時も付いてきたけれど「ぐち」を言わなければ良い女何だけれどね~。
結局釣りは世界中行ったな~、今も行き続けている。結局釣りが好きでニュージーランドに住み着いているんだ。
  ロンドンからニュージーランドに来たのが一番初めのニュージーランド旅行だった。

  *  長い旅の終わり
ニューヨークでお金を稼いだといっても経験として大量の金を使ってしまった。「これは良い経験になったと思うよ」しかし、又金がなくなったので俺たちは働くようになったんだ。文明国では何時も働いていなければ金が回らない事に気が付く。
これは足し算と引き算の世界だ。こんなことをやっていても一生働き続け自分たちの人生が得られないと気が付いたんだ。
世の中に一番多い労働者階級に参加しているとわずかな金を貰い生き続けなければ行けない。
そこで掛け算と割り算の世界に入ろうと決めたのだ。この意味は、生活していくために必要な金というのはどんな人も一定額であり、勤めていると多くは生活費だけしか稼げ無い。そこで我々のようにドロップアウトした人間は人並みに勤めて居てもだめなんだ一生働き続け病気になって死んでゆく、こんな計算がきっとされていて目の前にぶら下げられたニンジンのようなもので65歳になったら年金をあげると税金を取られているんだ、きっと年寄りの何パーセントは生き残らない計算が出来ているはずだ。
  ここでお前を巻き込んで商売をしようと考えた。それしか我々が将来豊かに個人を主張しながら生きる道が無いように思った。さて、商売をするといっても,元手も無いし経験も無いあるのは若さと情熱だけ。
人は無謀というかもしれないが、どうせ俺たちは無謀な道を歩いている、その結果今では生活に追われ貧乏旅行者から外人労働者となっている。もうそろそろ日本に戻ることを考えなければ、旅行も長い間やっていると何事にも新鮮な感激を得られなくなる。このまま続けても世界が広まるどころか貧しさのため狭くなってしまう。「おい、もうそろそろ日本へ帰ろうか」お前も同意したんだ。
  しかし問題がある、日本へ帰ってなにをするんだ。一旦日本の社会をドロップアウトした俺たちに生きていく道はあるのか?
かまうもんか、「俺たちには若さと情熱がある。貧乏にも耐えられる日本へ帰ってみよう」こんな気持ちだった。
そこでオーストラリアに向かったんだ。ここで以前旅行者がヨーロッパでやっていたアクセサリー売りを始めてみようと思いついた。一度スイスでアクセサリー売りについて行った事があるだけでどこで仕入れるか?も分からない。オーストラリアで毎日俺は探し歩いた必死だった。人間必死になると道が開けるもので、見つけたんだアクセサリーの材料屋を、一週間町を歩き回り聞き出した。そこで材料を仕入れオリジナルのアクセサリーを造り、量を増やす意味で出来合いのアクセサリーを混ぜ町に売りに行ったんだ、お前は「恥ずかしい」と嫌がった。無理も無いことだ、でも俺たちに出来る事は商売をやることだと決めていた。ちょうどクリスマス前で予想以上にアクセサリーが売れたんだ、お前も一緒に売ってくれた。これで売り上げが倍増して毎日小銭の山を銀行に運んだ。これは忘れられないね~小銭の紙幣が銀行の窓口に使えて入らない。あの頃の銀行の窓口と言うのは強盗避けのためかガラスで仕切られ小さな窓口になっていた、売り上げは5ドル札が多く普段で10万円ぐらい、クリスマス前には30万円ぐらい一日で売れた、旅行者が働いても週給100ドルぐらいの時に一日300ドルから1000ドル儲かった訳だ。その頃日本円は1オーストラリアドル250円ぐらいだった。日本に帰る準備のためその金を毎日銀行に貯金していた、二ヶ月ぐらいやったかな~貯金の数字が見る見る間に増えた。お金って簡単に儲かることを覚えた、確かにラクではなかったが働きに行っても楽な事は無い、自分のアイディアーでお金が儲かることを発見する。
ビルの谷間でテーブルを開けアクセサリーを売る。いろんな人達が買ってくれ楽しかった、毛色の変ったお客が来て色々な話しをしてくれる。ヨーロッパではアクセサリーを売る人が多かったがオーストラリアではまだ少なく問題もなかった。時々商店主と揉めたんだ彼らは自分たちの儲けが少なくなるので向こうに行けと追い出す。
ここでハイそうしますと移動するとアクセサリーが売れなくなるので、「文句があるなら、裁判しようじゃないか」とタンカをきる。決して商店主の土地でもないビルの谷間でアクセサリーを売るのだから、文句の言いようが無いのだが、彼らは店を構えている強みがあり我々の売り場を邪魔する。クリスマスが終わるとあんなに売れたアクセサリーも下火となり、これを機会にポンコツ車で旅をする。オーストラリアの印象は赤茶けた砂漠と言ったイメージが記憶に残っている。町以外は赤茶けた乾燥した土地に時々カンガルーが横切る、俺は好きになれなかった、緑が無いんだやっぱり自然の生き吹き見たいな緑が欲しい。
そんな緑を見てああ~生きているんだ見たいな気持ちに成る。赤茶けた大地ではどうもその気になれない。それにあの頃は人々の目が冷たかった、電車に乗っても皆が冷たい目で見るんだ、何も言わないでジィ~と見つめるこれが嫌いだった。こんな所には住めないと感じた、今会うオーストラリア人はフレンドリーだ、あの頃のイメージを持つ俺は変ったな~と感じる。今はニュージーランド人の方が冷たくなって来た、個人的な意見だがね。
  この頃は我々も落ち着く事を考えていたし丁度オーストラリアも移民を入れだした、不法滞在者は申請すれば永住権がもらえた、俺たちはその申請が終わったばかりのときにオーストラリアに行ったんだ、だから住みたくても永住権は取れなかった。
日本に帰るしかなかった。
あるときマリーナの横を通りがかった。そこにはヨットがずらりと並んでおり俺はお前に言ったんだ。ちょうど金も少し有ったし買えそうなヨットも売っていた。これを買って日本に帰ろうじゃないか?とお前に相談した。
お前はヨットなんてどういう風に操船すれば良いのか分からないと断った、又俺が大変なことを言い出したと逃げたんだ。俺は本気だった、このヨットを買って少し練習をして岸ズタイにゆっくり帰れば、日本に帰れると簡単に考えていた。
でもお前の猛反対に合い諦めざるを得なかった、ちょっと無謀かな?と頭の中を考えが横切った、止めた、飛行機で帰ろう。
  金というのは直ぐに無くなる物で、日本へ帰り着いた頃には持ち金が少なくなっており、又収入を得る道を考えなければ行けなかった。この時点では勤める事は考えてはいなかった、俺たち夫婦が物価の高い日本で生き残るには掛け算の世界しか無いと思っていた。昔、キャバレーの経営者が従業員教育に町でタバコの吸殻を拾わせた話が頭のどこかにあった。
外国で商売を始める事とは違い日本では恥ずかしいと思う考えが先にたつ、そこで資金稼ぎと日本になれる意味で、オーストラリアで売ったアクセサリーを又売ることにする、日本では言葉が話せる便利さで仕入先を見つける事は簡単だった。
まずどこで売ろうかと考えこの際思いっきりが肝心と銀座に売りに行ったんだ、お前は恥ずかしいと行かなかったように覚えている。銀座で店を開くとちっとも売れなかった、売れないどころか地元のヤクザ見たいのが来てなんだかんだと言う、参ったね~。
日本は売りにくいと感じた、ヤクザも売れない俺を見て何も請求しなかった。ヤクザの情けなのかかえって優しかったように覚えている。後で分かったんだがオーストラリアでは銀細工がよく売れたんだが日本では金が売れる、メッキでも金が売れることを発見しこれで少しずつアクセサリーが売れ出す。
道端でアクセサリーを売っていると色々な人と知り合う、誰に聞いたかもう忘れたが地方の祭りで売ると良く売れると言う情報を得た。それじゃ~行って見るかとライトエースのバンを改造して、今で言うキャンピングカーを造り地方の祭りを巡る。
どこそこで祭りが有ると聞きつけ駆けつける。行き始めて分かったのだが祭りというのは場所が少しずづ近くの町に移動して開催される、どこそこの祭りが終われば次の町に行く、だから何時もテキヤ連中は同じ人達になる、初めは如何したら売らしてくれるのかわからず恐る恐る祭りで売っている人達に聞く。「すいません、如何したらここで売らしてもらえるのですか?」
怖そうな兄さんたちに聞くのは勇気のいるものだ。怖そうに見えた兄さんたちは親切に我々夫婦に教えてくれる。テキヤの事務所があり行く先々でいくらかの金を払い場所を貰う、人通りの多い場所を貰うとよく売れるが、場所が悪いと売り上げに響く、この場所を決めるのは地元のテキヤで付き合いの長い人が良い場所を貰う。我々は何時も端っこで売っていたように思う、我々がアクセサリーを祭りで売り出した頃、他のテキヤ連中は昔ながらの品物を売っているためお客は我々に集まった、田舎町でもアクセサリー売りは珍しいのである。テキヤ連中も我々を研究してすきあらばアクセサリーを売ろうとしていた。
親しくなるとテキヤの兄ちゃんたちは優しく、我々を仲間と思うのか親切にしてくれたが、この連中は酒を飲むと性格が悪くなる、テキヤの奥さんが我々に親父が酒に酔っ払っているので遠くに離れていなさいと忠告してくれる。この人達は世の中を皮肉れて見ているため酒を飲むと性格が出る、私自身も皮肉れているためか気が合うところもある。寝泊りは車の中でするが風呂は温泉が多い、地方の祭りは温泉地が多く温泉に入ってはアクセサリーを売る日々、地方の町と言うのは演歌の世界で我々にとっては外国旅行のようなものに思えた。
日本中売り歩いてみた、面白かったが何時までもこのようなアクセサリーを売る事は出来ないと感じた、やはり二ヶ月ぐらいで止め、まともな商売を考える。
  俺たち二人は何も持ってはいなかった。フランスの友達に貰ったリックとニューヨークで買った中古のスーツケースこれが俺たちの財産だった、だから無くす物もなく怖い物も無い。
  俺はお前と結婚する前に子供は作らないと決めていたんだ、それをお前にも話したはずだ。俺には自分の子供を持つ自信がなかった、俺みたいな劣勢な人間が子供を産み育てると想像すると怖くて生みたくなかった。子孫と言うのは優勢遺伝だけ残せば良いと考えていた、俺みたいな劣勢な子供が生まれて同じような大人になると思うととても生む勇気が出なかった。
世の中の人達は勇気があると尊敬するよ。俺は出来なかった、弱虫だったのかもしれない。
子供を生まなかった分好き勝手なことをさせてもらっている。だって俺たちは子供を生んだ責任も取らなくて良いんだもの
今考えても、子供を生まなくて良かったと思っている、自分が自分を一番知っているんだもの。犬猫もいるし愛情を掛けられるし、犬猫は何時までも子供のように扱えるし可愛いいもんだよ。

  *  飲食業に挑戦
何かのきっかけで飲食業を始める事になった、商売をやろうとしていたし安定した仕事を探していた。
きっかけになったのは名古屋の知り合いがやっている商売を親切にもふらふらしている我々に勧めてくれた。色々と商売の手ほどきを教わり飲食業を始める事になった。しかし条件はその地域より遠くで始める事だった。色々内輪の秘密を教わり近くで始めるとお客の食いあいになりかねない。そこで我々は東京近辺で始めると公言して場所を探し始める。東京近郊は店舗の借り賃が高く毎日我々が出店できる場所を探し求め東京近郊の駅をしらみつぶし出歩き回る。条件は駅から歩いて3分以内、我々の予算で開店できるところは見付からない。土地勘も無いし知り合いもいない。世の中をすね、人をすねる私にはがむしゃらに自分の道を歩むしかない、外国帰りの浮浪者に助ける人もいない、このサゾマゾの快感に喜びを感じ何とか店を開く道を考える。
  ニューヨークで飲食店の下積みで働いたことが今役に立つ。我々の計画の中には飲食店はただ単に食事をするところではなく、エンターテイメントであるべきだと言う考えが有った。貧しい時代であれば飲食だけでお客は満足するが、豊かな今の時代お店に来て楽しむと言うエンターテイメントの要素がなくてはならないと考えていた。しかし我々の予算では小さい店しか出店できないので単価の上がる酒の売れるメニューを多く作る、酒には習慣性があり飲みすぎる可能性がある、これで売り上げが上がるとほくそえむ。
  出店場所を探し歩きやっとの事で場所が見付かる。欲はいえない場所だ、予算もある事だしこの場所に決める。
この仕事を10年間やることにした、何故かというとまとまった金を造り自分たちの求める人生を歩みたかった。この時点ではまだ何をしたいかは考えていなかったお前も同じだった、タダ何と無く働くだけでお金を貯めることが人生の目標にしたくはなかったんだ。俺たちには子供もいなかったし作る気もなかった。とにかく今まで色々なことをやってきたが、やっていない事は多くの人達のように普通に働く事だった。簡単な様で俺たちには一番難しいことのように思えた、この商売に有り金を掛けてみた博打かも知れない。
でもどうせ一文無しから生活を始めた俺たちだから、何も怖くはなかったしまだファイトがあった。
  飲食店は時間の長い労働である、朝10時から仕事をはじめ夜中の2時頃にかたずけと帳簿付けが終わる。俺はすでに酔っ払っており眠りに付くがお前は洗濯をしていた、お店の布巾を毎晩洗ってくれた、働き疲れて布巾を狭い部屋に干す時、干しながら寝てしまった事があったねえ~、酔っ払って寝ている俺の頭の横にでかい音と共に倒れてしまった。さすがの俺も大きな音で目が覚めた、きつい仕事だった。でも、多くのお客さんと話せる楽しい仕事だった事も確かだ、初めの一年間は苦しかった、お客が入らないんだ、資金も少なかったし場所も悪い、固定客が付くまで大変だった店の外で客引きまがいの事もやった。
若かったせいもあり年寄りの客とよく討論した、はいはいと言っていれば良かったかもしれないが,言えなかった、きっとお前はハラハラしたと思うよ。怒って帰った客が何人いたことか?これでは店が流行るわけが無い。でもだんだん好いてくれるお客が増えだしたんだ、「俺たちの人徳かな?」少しずつ客が増えだした。増えた客層を見て統計を採ると飲食店に行く回数の多い人達で学歴が高い人が多かった、そのとき思ったんだきっとこの店は流行ると確信した、そして会社の若手でリーダー格の人達が多く来てくれる様になった。この地域には会社が多く相変らず年寄りとは喧嘩もんかだったが、その分若い連中が増えた。
もう一つ我々には特技があった。外国から研修客が近くの会社に来る、その会社の接待に片言の言葉を話せる俺たちが便利と客を連れてきてくれる。飲食店の主人がスワヒリ語の歌を歌ったり英語を話すこれが有名になった、昔の放浪が役に立ったんだ。
外国の話しもお客は聞けるし仕事のアイデアーを取り入れる事も出来ると人気があった「芸は身を助ける」。
  東京近郊の会社は地方から働きに来ている人達が多く、我々と同じく知り合いが身近にいない人が多い、そのためにお店のものと話せることがお客との交流に役立ち親しくなったこれも成功の一つだった。客が入りだすと自然に評判が良くなりますます客が入る、地方新聞に紹介されたりホテル雑誌にまで紹介される。するとますます勝手に良い評判が立ち評判が一人歩きし出す、お店の経営者が東京や横浜から覗きに来る。それで又忙しくなり流行っていると評判が良くなる、評判とはかなりいい加減なものである。
我々も休みの日には必ず評判の良い店を見て回るようにしていた、これも飲食店の仕事である。だから見知らぬ人がやってきて何人かで各種の商品を注文する時は他店の視察であると分かる。時にはメニューを控えている。人は流行っていると何でも良く見えるものだ。
  お店が流行りだしたと言っても、毎日の努力なしでは維持できない。お前は固定客の総てに誕生日カードを出し、名前を覚えていた。不思議だった、努力したんだ。固定客だけでも1000人ぐらいいなければお店は流行らないと言われている。
固定客と言っても毎日来るわけではなく、一ヶ月に一回来店すると固定客のようなものである。それを顔と名前が一致させるのは並大抵のことではなかった。俺なんかお客の名前が判らない無い時には絶対名前を呼ばない事にしていた。間違った名前を呼ぶよりお客さんと呼んだ方が安全パイだった。俺は未だにお前はよくあれだけ名前が覚えられたもんだと感心する。
お客は自分の名前を覚えてもらえるのが一番嬉しい事だった。多くの地方から出てきた人達は、知り合いもいない町で働くんだもの名前を呼んでくれる人のところに親しみを感じるものだ。商売だから名前を覚えただけでは無く、楽しく会話できる店だったから友達のようにお客さんと仲良く出来た、バレンタインデーの時には必ずチョコレートを一粒上げたっけ、皆にチョコレートを上げるから多くはあげられなかったが一粒のチョコレートが受けたんだ、男なんてチョコレートを多く貰っても食べられるものではなくかといって貰え無いのも辛い。一粒でもチョコレートを貰ったことになる。高いチョコレートになることが分かって居ても、お客は嬉しそうに口に運んでいた。こんな心の通った店だった、仕事はきつかったが楽しかった、皆でワイワイガヤガヤと遊んでいたようなものだった。
一度面白いことがお店で起こった。ヨッパライが紛れ込んだ、お店に打ち解けないタイプの人だった。店にいたお客が店の主人の俺が何も言っていないのにみんなで「帰れコール」が起こったんだ。店にいた客が口々に「帰れ、帰れ、帰れ」と叫びだしたんだ、面白かった。「帰れ」と言われたお客はポケットから金を出してばら撒き、お客に酒でも飲んでくれと驕ろうとしたんだ。それでもお客は要らないと金を返し又「帰れコール」が始まった、酔っ払いは逃げるように帰って行った楽しかった。
主人の俺なんか何も言う間が無かった。俺は嬉しかったね~、こんなお店が作れたなんて、多くの店は売り上げを上げるためにお客にヘコへコしているのに、うちの店はお客が雰囲気を作り上げてくれる楽しい店だった。
  俺たちは一年に一回10日ぐらい休んだ。周りの店は誰も休みを取らない頃、夏休みを10日も取って外国に釣りに行ったりしていた。お店には休みの張り紙をして休んだ。でも他の店のように「夏休みに付き休ませていただきます」何て書かなかった。お客さんがせっかく歩いてきてくれ、張り紙を見て喜んでくれる文を考え毎回面白いことを書いて張っておく。もう何を書いたのかは忘れたんだが受けた事は間違いなく、休み明けを待ってお客が来てくれ張り紙が面白かったと喜んでくれた。休暇中の旅の話をしたり、アラスカで釣った鮭をお店で出したりお客も一緒に楽しんでくれ。おまけに来年はどこに行くのだとお客から聞かれるようになってきた、何時も面白い旅を考え出し休みを取った。
一度ボルネオにクワガタを獲りに行った。あの頃お前はクワガタに凝っていたんだ、以前に北海道で摑まえたクワガタがもう少しで日本の最北端のクワガタだったと専門家に言われ凝りだしたんだ。ボルネオで何故かクワガタを捕まえると公言してコタキナ山のナショナルパークに行ったとき、俺たちは落ち込みそうになった、クワガタなんて居ないんだ、寒くてこんなところにクワガタが居るわけが無いという雰囲気だった。そして諦め掛けた時
奇跡的にどこからとも無くクワガタが飛んできたんだ。嘘みたいな本当の話しなんだ。お前は喜んだ、このクワガタを税関で見付からない様に日本まで持って帰ってきた。何故か貴重なクワガタだった、今でも山梨の私設昆虫博物館においてあるかもしれないね。
  植村直巳がマッキンレーで死んだ時、俺たちが勝手に捜索隊を作成してアラスカまで行ったんだ、植村直巳が泊まった宿に泊まり、同じ飛行機をチャーターして探しに行く予定だった、でも限られた日にちで天気が悪く飛べなかった、何と無く植村直巳が好きだったんだ、でも死んでしまった。俺たちは結局観光をして釣りをして帰って来た、情け無い捜索隊だった。
  子供が居ない俺たちは生活が掛かっていないので毎年いろんなことをして歩いた。バイクもやったんだ、50ccから始めた。
店が終わってから夜中の造成地でバイクの特訓をしたね、俺がお前の後ろに乗り教えていたら下りでフロントブレーキを強くかけたものだから俺はお前を飛び越え転げ落ちたんだ、二人とも擦り傷だらけになり血だらけに成った。夜中に店の前でその血を流していたら偶然にも隣の家の人がタバコを買いに起きてきて驚いていたっけ。次の日には傷だらけの顔でお店に出てお客に笑われたものだ。顔の傷で思い出したんだが、北海道に釣りに行った時何かでかぶれたのか虫に刺されたのか?お前は顔を半分腫らしお店に出ていた、お店というのは簡単に休めないんだ、病院の看護婦さんが腫れが引いたときにお前の事を「やせていたんだね~」と言っていたよ。そのぐらい顔がはれていたんだ。
  楽しかったな~、今でも時々夢に見るよお店のことを。「何で止めたのか?」前にも言ったように10年で止めようと決めていたんだ。予定の10年が近づいた頃、お店の客の一人が交通事故にあって入院していたんだ。一年で一番忙しい七夕祭りの日、お客とバイトの女の子2人がお見舞いに行くといって許可を求めた、お客と店の者は友達のような店だったので、5時までに帰ってくる約束でお見舞いに出掛けた、ところが一番忙しい日に夜の10時に帰ってきたんだ、俺が怒ったんだ、お客とバイトの女の子を、一人は直ぐに謝ったんで許したんだがもう一人と客は謝らない。信じていた客に裏切られたように思ったし、「俺は客だ」という態度に愛想が尽きたんだ、幾ら商売でお客から金を貰うといっても、もっと客と分かり合えると思っていた。約束を守らなかったんだから謝るべきだと思った、他の来てくれるお客さんにも迷惑を掛けたんだし、約束の時間に遅れたんだから謝るべきだ。
これが切っ掛けでこの辺で止めようと思ったんだ。お店が上手くいっているのに止めるなんて、皆ももったいないと言ってくれたが、店が流行りだすと毎日働くだけの生活に面白みを感じなくなっていたことも事実だった。
あの手この手でお店を流行らそうとしていた時ほど面白くは無くなっていた。お前は驚いたことだろう、本当に止めようとお前に打ち明けた時には、「止めて何をするの」ってお前は俺に言った。あの時点では何をやるかわからなかった。金儲けもそろそろ飽き出していた子供がいないので気楽な反面欲も出なかった。
  それ以来お店を止める準備を始めたんだ。止めるにもお客に迷惑を掛けたくは無いし店を誰かが続けなければいけない。若い人にお店を続けてもらいたかった。それも個性が有る人でこの店をやっていけそうな人、そしていくらかの金でこの店を買ってもらわなければいけない。まず目安をつけこの人ならやって行けるという人を見つけ出すのが仕事だ。
お客の中からこの人ならと一人見つけ出しこの人に照準を当てて地方新聞に広告を出したんだ。広告を見せる方が口で口説くより確実だと思った、たいがいの人は活字を信じるものである。この広告を本人に見せ俺が店を止めようと思っていることを話す。そしてこの店をやらないか?と誘いを掛けたんだ。目安にした人はそろそろ落ち着いた仕事をしなければと思っていたところでタイミングよく声が掛かったわけである。広告を見せると真実味がありこの彼もお客の一人であり、店が繁盛しているのも知っており「この件について考えたい」と言う。こちら側も止める理由が必要であり考えていたところでもある。
  俺はオーストラリアでヨットを買って日本へ帰ろうと言ったことがあるだろう、このことが頭のどこかに引っかかっていたのか?どうか知らないが。海の世界が自分にとって未知の世界であることに気が付いたんだ。それでお前に相談したんだ。
お前は簡単に「船酔いするからいやだ」と断った、もっともな話しだ。でも俺はお前をくどき続けた。お前はその頃小笠原まで船で行っても船酔いしなくなっていた、お客の一人から良い船酔い止めの薬を教えられその薬が効くことが分かったんだ。それでふらっとお前の考えが傾いた、お前は俺に日本でヨットなるものに乗って見ようと言い出した。今度は俺が「嫌だ」と断った。
以前お客の一人からヨットに一緒に乗らないか?と誘われた事がある。このときは俺がヨットに乗るなんて想像もしていなかった。「ガラじゃ~無いから」と断っていたのに、そんな俺の方からお前にヨットに乗ろう何て言い出したんだ。
でも、日本で何と無く乗りたくなかった。理由は分からないがヨットで大洋の真中に行って見たかった、誰もいない大洋の真中に自分達の力で未知の世界に行きたかった。今回は死ぬかもしれないとチラッと頭をかすめる。
どうせ何も知らずにヨットの世界に飛び込むのだから日本じゃなく外国で始めたかった。「日本でヨットに乗るなら止めよう」と俺はお前に言った。せっかくロマンでやるのだから色々と制約のある日本ではやりたくなかった。しばらくお店を止めるまでこの話は置いとくことにして又お店の引継ぎに努力した。後継者が決まり、勿論狙った人に引継ぎをしてお客にはヨットで大洋を渡ると手紙を出す。俺たちの性格をお店の客は良く知っていてみんなと別れをしたんだ。

  *  ヨットに挑戦
それで俺たちはニュージーランドに向かったんだ。ヨットというイメージは南太平洋というイメージだった。ニュージーランドは以前にも何度か訪れており少しは知っているところだった。ここでヨットを買って練習を始めようと考えていたんだ。途中ニューカレドニアでお前がどうしてもヨットを買う前に、ヨットというものに乗って見たいと言い張る。俺も乗った事の無いヨットに乗ってみようと妥協する。昔、アフリカのラム島でカヌーに帆を張ったヨットと呼べるかどうか分からないカヌーに乗ったことを思い出す。風で走る船に乗った一番最初であった。
ニューカレドニアで二回目のヨットに乗る。風で走る船だ、観光用の船で昼飯をサンゴの島で食べ遊んで帰ってくるだけのつまらない船だった、ちょっとガッカリした高かっただけだった。お前でさえも期待はずれでガッカリしていた。
  それでニュージーランドに行ったんだ。ニュージーランドに着いて港の近くをうろうろしながらヨットを買う道を探した。
如何して買えば良いのかも分からない、ヨットの事も何も知らない情熱だけであるきっと人は無謀というだろう、でもかまわないやれるだけやって見よう。一軒のブローカーで買えそうなヨットを見つけた。でもこのヨットが良いのか悪いのか、高いのか安いのか何も分からない、そこで賭けをして見る。ちょうどオーストラリアから渡ってきたヨットが波止場に停泊した、忙しく働くクルーにヨットの明細書を見せ、値段だけ隠し聞いてみた「あなただったらこのヨットを幾らで買うか?」金額が近かったら買うことに決めようと決めていた、ヨットのクルーが出した金額は明細の半額だった。「止めることにした」
  バスに乗ってもっと北に行く、地図を見ると北に行くと海に近く入り江が入りくんでいる、お前はこんなに入り江があるからきっとヨットが沢山あるに違いないとアイディアーを言ったんだ。そこでとりあえず北に行くバスに乗る、このバスでどこまで行くかも決めていない。海辺の町でバスが止まった走っているときに海がバスの窓から見えたんだ、この町に着いたら多くの乗客がぞろぞろと降りるので、俺たちもとにかく荷物を持って降りたんだ。バスに降りて周りを見渡すと海なんか何にも見えない。こりゃ~間違ったと又慌ててバスに乗る。バスに乗り改めて地図を見直すとこの町にもどこかに海があることが分かったが、もうすでにバスは走り出しており諦める事にする。
次の町は海沿いの観光地と見え海岸にバス停がある。目的のヨットも多く泊まっており、ここで我々も降りる。
バスを降りて荷物を置き周りを見回すと観光案内所らしきところがあるのでそこに向かい、宿とついでに如何したらヨットが買えるのかを聞き出す。観光案内所のおばさんは驚き、私も船はもって居るがと前置きしてブローカーに電話を掛ける、少しうろたえている。地元のブローカーに電話を入れ明日ブローカーに案内してもらうことを約束して安宿に向かう。ヨットと安宿この組み合わせに観光事務所のおばさんは半信半疑だったと思う。モーテルに腰を落ちつけ翌日約束のブローカーと観光案内所で落ち合う。ブローカーの事務所に行きヨットについて色々説明されるが、何も分からない俺たちは幾ら説明されても分からないし騙されようも無い。我々の要求はしばらく生活できるサイズのヨットという事だけで後は何も分からない。
とにかくモーターボートでヨットを見て回るが何も分からない。お前はトイレをしたくなりモーターボートを止めてくれと頼んだことがある、ブローカーは先ほどの船で何故トイレをしなかったのかと聞くではないか?このときヨットにトイレがあることが初めて分かる、そのぐらい知らなかった、とにかく買って見るしかない。ブローカーは心配して小さいヨットを勧める。これから始めて慣れると良いと勧めるが俺は断固として断る、どうしても大洋を渡るんだと説明する、そのためにも適当なサイズのヨットが欲しいと粘る。この頃はさすがのニュージーランドでも外洋航海をする人が少なかった時代で、俺たちに出来るとは信じて貰えなかった。
ブローカーは一艘の重たいが丈夫なヨットを紹介してくれた。これを買うことにしたが操船を覚えるのにインストラクターを紹介してくれと頼んだんだ俺もお前も操船の仕方を知らなかった。
金を払いヨットをモアリングまで回航してもらいそのヨットに住み始めた、これが海上生活の始まりだった。自称ボートピープル、世界が変った。インストラクターが来るまでヨットは動かせないが、掃除でもしようとヨット内をかたずけ拭き掃除を始める。陸の生活のように水を拭き掃除にどんどん使ったので船内の水が一日で無くなる。200リッターの水が、ヨットの生活では飲み水として200リッターは使い方にもよるが1ヵ月位持つ量である。初日からヨットに水が無くなる。操船の仕方などまだ知らないときに水が無くなった、お前が家庭生活のように水をドンドン使ってしまった。ゴムボートを使いポリタンクで水を陸から運ぶ、一回にわずかしか運べない、何とか桟橋にヨットを着け水を入れたいのだが、操船をしたことも無く桟橋にヨットをつける自信が無い。ある朝、風が無い静かな時があった、今だと感じて思い切ってエンジンを掛け桟橋に向かう。生まれて初めて我々だけでヨットを動かした記念すべき日だ。幸いにもこれが上手く言ったんだ、風も無く潮も動いていなかった成功したのだ。水を満タンにしてモアリングに戻る。モアリングというのはコンクリートの塊を海中に落としそこからロープやチェーンで船を繋ぐようになっている。モアリングに戻った我々はインストラクターが教えてくれるまで、満タンの水で持たそうと約束を交わす。ところが陸に住んでいた我々は今度は満タンの水を2日~3日で使い切る又水が無くなった。前回水を入れるのに成功しているので、今回もトライする。今回は不運にも少し風があり潮が動いていた。この中を桟橋に水を入れに行く、ヨットは今回は真直ぐには止まらない、桟橋に直角に止まるおまけにナビライトをぶつけ壊してしまう。周りの手伝いもあり何とか水を入れ戻ってくる、高い水代になってしまったと二人でぼやく。
一日インストラクターに操船を習う。エンジンを掛け湾内を走り回りアンカーを下ろす、次はセーリングという時になりインストラクターが用事で忙しくなり、時間が空くまでエンジンで走る練習をするように言われる。ヨットにディーゼルを満タンにして湾内を走り回る、少し慣れてきた時釣り船が走って行くのでその釣り船の後を追いかける、釣りがしたかったんだ、エンジンで追いかけていると突然外海でエンジンが止まってしまった、パニック状態になる、まだセールでセーリングしたことも教わったことも無い。日本で買ってきたセーリングの本を開け読み出す。ヨットは少しずつ岸に流されていくが今のところ風が無い。「セールをとにかく上げろ」と風も無いのにセールを上げる、走らない、ジブも上げるまだ走らない、もう一度本を読み返す。あせって居るのだ本の通りセーリングするのだがヨットは走らない。如何すれば良いのかパニックだ。後でわかったのだがこのときは風が全然無かったんだ。仕方が無いので本を頼りにエンジンを見るが説明が総て英語で、何が書いてあるのか分からない。パニック状態なので余計に分からない、もう一度セールを上げて見る。すでに時間は午後になっており海風が吹き出して来た。
この風に乗り少しずつヨットは走り出す、生まれて初めて自分でするセーリングだ。我々は本を片手にとにかく一番近い停泊できるところまでセーリングする。冷や汗物で何とかアンカーを湾内に下ろす。この時点ではディーゼルは満タンに入れたと思っており、きっとエンジントラブルと思い込んでいた。落ち着いたのを機会にエンジンの本を又開き故障箇所を探す、英語がもっと分かるとよかったんだが何時間か掛け本を頼りに故障箇所を探し求める。最後に発見したのはガス欠だった。満タンにしたはずがディーゼルの注入口から泡が噴出したのを満タンと思ってしまったんだ。俺の早合点だった。
原因が分かったので何とかディーゼルを他の船から分けてもらおうと探しに行くことにしたんだ。ゴムボートを下ろし、近くの船の人にディーゼルを分けてくれと頼むが、ここまでセーリングして来たのだからこのままセーリングで帰れと言われる。生まれて初めてのセーリングだから自信が無いと言っても聞いてくれない。われわれはこの難しい湾をセーリングして来たのだ。仕方なしに又本を開きセーリングを始める。対岸に行くのに向かい風になり何時間も掛かって対岸にやっとたどり着く、上手く操船できないんだ。対岸にやっとアンカーを下ろし停泊中の船に肩端からディーゼルを分けてくれと頼み歩く。オーストラリアから来たヨットが予備のディーゼルを持っていたので分けて貰う事が出来る。その彼は我々のセーリングを見ていたらしく、何時までも来ないから練習していたのか?と聞かれてしまった。このディーゼルで何とかモアリングまでエンジンで帰ることが出来る。
初めてのセーリングだった。これ以来風の静かな日にはセーリングの練習をした。インストラクターが時間がとれ教えてくれだした時には我々はすでにセーリングが出来るようになっていた。「インストラクターがもう教える事は無い」と言い、後は慣れるだけだとお墨付きを貰う。
  インストラクターからお許しが貰えたので、それ以来毎日のようにセーリングの練習を続ける。
ある天気の良い日に、外海に面して開かれた美しい入り江にセーリングに行く。俺もお前も少しセーリングが出来始め自信もあった。この入り江は我々がホームポートにしているところから半日ぐらいセーリングした所にあり、外海の綺麗な海水が入り込み海産物も豊富なところであった。問題は天気の良い日には天国であり、外海に面して開かれているこの湾は天候が崩れると地獄に変る。無事この湾に着いた我々二人は、この入り江の美しさに見せられ感激の余り2日間海遊びに浸る。
周りにいた船が少しずついなくなりこの湾は我々が占拠する。ラジオのスイッチを入れ天気予報を聞くと天気が悪くなりそうだ、しかし今帰るより明日の方がいいだろうと、昼間遊びほうけていた我々はぐっすりと眠る。
夜中にヨットが激しく揺れだし目が覚めるがもうすでに遅かった。湾の入り口は白く滝のような波が崩れ、湾内に入ってくる。ヨットは揺れに揺れ、窓から見えるのは片側が陸、片側の窓からは海と交互に揺れる有様、この湾に来る前にインストラクターが教えてくれた事を思い出す。「風が東に変ったら、直ぐにこの湾を逃げ出す事」。しかし気がつくのが遅かった。我々の残された道はアンカーロープを出来るだけ長く出してヨットが陸に打ち上げられないようにするだけ。ヨットが陸に打ち上げられれば、波の力で粉々にされてしまいヨットの命はおしまいになる、我々はこのときヨットを無くすかもしれないと思った。でも湾内で海に飛び込めば何とか岸に打ち上げられ二人の命は助かると計算した。急いでアンカーロープを出し交代で船を見張る、何日で海が静かになるのか分からないので、鍋一杯のカレーを造り食料として長期戦の構えだった。ヨットは少しずつ岸に流されていく。アンカーが食いついてはいるが少しずつ流される、エンジンを動かしアンカーを一旦引き上げて流された分前に進み又アンカーを落とす。
これが口で言うほど簡単ではなくヨットの小さなエンジンでは大波と戦って前に進むだけでも命がけである。俺が舳先に立ってお前が舵を持ち波に向かった、もし失敗するとアンカーを上げるので直ぐに岸まで流されてしまう。波に押し流されそうになりながらお前は波に対して船を真直ぐに向ける。俺に怒鳴られ必死でがんばった、俺も必死だった。再度アンカーを下ろししばらくほっとする、こうして二日間この湾で同じ事を続けた。こんなに揺られると船酔いなどしていられない。お前は「船酔いに弱くてヨットなどやりたくない」と言い続けていたのに、こんなに揺れるどころかヨットがローラーコースターのように右に左に、上下に揺れるのに船酔いなどしていないのだ、恐怖のため船酔いなどしてはいられなかったんだ。
二日間がんばった。嵐が通り過ぎ少しだけ海が静かになった、我々のヨットは流されなかったんだ。もうこれ以上はこの湾に居たくは無かった、まだ波は大きくうねって湾内に入ってくるが、アンカーを何度も打ち直して覚えた我々のヨットのエンジン性能が、このぐらいの波なら湾の入り口を抜けられるだろうと賭けてみた。思い切ってアンカーを上げ外海に出る事に挑戦する。
嵐に会い三日目だった、湾の入り口は少しひょうたんのようにくびれており、外洋から来た波がそのくびれでますます大波となっている、昨日まではこの波が白く崩れていたが今は大きく盛り上がり岩に崩れてぶつかる。この湾のくびれを上手く抜ければ後は外海で波は相変らず大きいとは言え安全になる。時間が掛かったが何とか湾のくびれを抜け外海に逃げ出す。
外海は広く安全とは言えまだ6メーターぐらいのうねりがあり、11メーターのヨットがサーフィンの板のようにサーフィングする。ダイナミックなセーリングだった、セールが大きそうだったのでリーフしようと俺がセールに取り付いたんだ、その瞬間波に舵を取られブームで俺はひどく肋骨をぶったんだ、それでも「痛い」何ていっている暇は無く、セールを小さくしてコックピットに戻る。それ以来一ヶ月は肋骨が痛んだ、きっとヒビが入ったんだ、それでも毎日セーリングを続けた。俺たちの目的は大洋を渡る事だった、大洋に出るともっと厳しい現実が待っていると思っていたんだ。
  このセーリングから無事ホームポートに戻り、インストラクターにセーリングの話をしたとき、インストラクターは俺に聞いたんだ。「エンジンで帰ってきたのか?セーリングで帰ってきたのか?」と「セーリングで帰ってきた」と俺は答えた。
インストラクターは手を差し出し、「おめでとう!一人前のセーラーになった」と褒めてくれたんだ。あの時は嬉しかったお前も大変喜んだね。
  後で今回のセーリングで何が悪くて嵐に掴まったのか?考えて見た。天気が良かったので遊びすぎたのも一つの原因だったが、翌日の天気を調べずに遊んでいたのが大きな原因であった。ヨットではスピードが遅いので天候を読んで対処する事が一番大事なことである。この教訓を身を持って教えられた「良い勉強になった」。
  こんな事があって、ニュージーランドからタヒチに向かうときまで約一年間毎日のようにセーリングを続けた。沿岸の海ですれ違うヨットは冬でも我々を含め三艘セーリングしていた,この三艘とは何時もすれ違った。後で分かったのだが我々と同じく南太平洋にセーリングするためにトレーニングしているヨットだった。よく多くの人が言ったものだった、「こんな日にもセーリングをしている」と、俺たちは一旦外洋にセーリングに出発すると天候なんか選んでいる訳には行かないと思い、どんな日でもセーリングを続けた。そしてヨットを壊し直した、ヨットの弱い所を発見しては強度を加える。
  出発の時が来た。出発の準備で桟橋に止まっているときに隣のヨットの人がシャンペンをくれる。タヒチに着いたらこれを飲みなさいと。無事タヒチに着けるか?心配だった。この人が無線を調べ無線局に何時でも連絡できるように繋いでくれる。
この頃ニュージーランドでも大洋を渡る人は少なかった時代であった。まだセキスタントを使って自船の位置を出していた時代だった、俺たちもセキスタントを使って大洋を渡る予定だ。お前はヨット仲間から秘密で隠してサテナビを持ってゆけと言われ持って行こうとしたが思い切って持っていかなかった。
夢とロマンで大洋を渡るというのに機械を持って行っては面白みにかける、このお前の決断が良かったと今でも感謝している。恐怖を感じるばかりに機械を持って行き、夢とロマンをぶち壊す事をしなくて良かった。「ナビゲーションの機械が今どこにいて後どのぐらいで何処そこに着く」何んて教えてくれる、これじゃ~飛行機で行った方がましだ。
  海の真中に出てタヒチへと向かった、もう後には戻らない。次の日から海は嵐となった、気持ち良くゆったりとセーリングを続ける予定が嵐だ、波が大きくなりセールを小さくして波に逆らわない方向に走る。これしかヨットを壊さないで走る道は無い。
ヨーロッパからセーリングしてきた人の話では、二週間以上海の真中に自分たちだけで居ると考え方が変って来ると聞いた。
別に急ぐ旅ではないので出来るだけ安全に行く。お前は毎日日にちを数えていた、周りはヨットを包み込み沈めてしまうような大波しかなく白く泡立ち崩れ落ちる、恐怖を感じるのは真っ暗な夜であった。交代に見張りをするのだが不安で見張りは大丈夫かな~と見に行くとお前は眠っている。お前も俺と同じ事を言う、お前が不安で見張りはだいじょうぶ?と見に起きると俺は眠っているという。
夜の見張りは眠たくて仕方が無いものだ。見張りの時はハーネスでヨットのどこかに自分の体を縛り海に落ちないようにする。
海に落ちたら一環の終わりである。非番の時には酒を飲み眠る、酒でも飲まないとヨットにぶつかる波の音が今にもヨットをばらばらにしてしまいそうで恐怖で寝られない。その反面自分が見張りの時は眠くておきていられない不思議なものである。
  あんなに何時島が見えるかと指折り数えていたのに、二週間を過ぎるともうどうでも良くなってくる。
お前は足の関節が痛み足を切り落としたいというほどだと痛みを訴える。ビタミンが不足してきたのか?船酔い止めを飲みすぎたのか?辛そうだった。
結局26日目に初めての島に着く。その間20日間は海が荒れていた6日だけ海は静かで体を洗ったりとノンビリ出来た。このヨットで体を洗うというのは意外と危険なことなんだ。聞いた話だが、ちょうど我々がヨットの練習をしている頃、中国人が自分でヨットをニュージーランドで作っており、「会いに行けば」と勧められたことがある。我々はセーリングの練習に忙しく会えなかったのだがこの中国人のヨットが完成して、ガールフレンドと二人で自国へセーリングを始めたんだ。大洋の真中で体中石鹸で泡だらけにして洗っていたら、石鹸の泡で足を滑らし海へ落ちてしまった。ガールフレンドはたまたまキャビンに入っており出てきた時外には誰も居なかったそうだ。このガールフレンドはヨットの操船が出来ないので、一ヵ月後?ぐらいにどこかに流れ着いたという話を聞いた。
  我々のファーストランドホールはタヒチの南の島ライババエという島だった、26日目で久しぶりに見た島は緑がさわやかな夢の島に着いたような感激だった、太陽と星や月を眺め26日ぶりに島が現れたときには、我々の天測が間違いでなかった事が、島に着いたことよりも嬉しかったし感激だった。この初めての島で大波を何度もかぶったヨットの中を乾かし、マットレスや濡れ物を干し乾燥する、この島に一週間ほど滞在してタヒチに向かう。
  もうここからは感激度は薄く,モーレヤに着き、出発の時貰ったシャンペンを開ける。「乾杯」これをやりたいがために命を掛け海を渡ってきたんだ。
このときお前は俺が言ったことを思い出していた。店をやっていたとき俺が酔っ払ってお前に話したらしい。
「いつかきっとタヒチに行きヨットでワインを飲ましてやる」と俺は忘れて居たんだが、お前はシャンペンとワインの違いは有っても、「本当にヨットの上で祝杯が上げれた」と喜んでいた。そのときお前は飲みすぎて海に飛び込み、ヨットのどこかに顔をぶつけ目頭から涙じゃなく血を流しヨットに上がって来た、この事は一生忘れられない思い出とするために今でもまつげにその傷跡が残っている。「いい思い出だ」。
  予想していた通りタヒチは俺たちの求める南太平洋の楽園ではなかった。アメリカ人が荒らした後の観光地と化していた。ここから島伝いに南太平洋の国々を回って又ニュージーランドに戻る。
大洋の真ん中に居たときと違い、一日二日のセーリングで新しい目的地へと着く。この頃は未知の南太平洋セーリングという感じは無くなり、行く先々で同じヨットの連中と巡り合う。まるでヨットを使った観光客といったところである。
そのため新しい刺激も無くなり冒険心も無い、あるのはヨット乗りたちが毎晩集まって晩餐会をやり私の船はどうのこうの、あなたの船がどうのこうのと言ったひけらかし合いをしながら飯を食う。「つまらない」俺たちの考えるヨット生活ではなかった。
貧しくシンプルに生活している南太平洋の人達を訪れ、高価なヨットをひけらかし一見優雅な生活をする嫌な世界だった。
どのヨットの連中も初めは新鮮で各自の夢と冒険心で海を渡りやってきたのだが、南太平洋の安全な港を回るうちに、タダの観光客に変ってしまう。
  俺は昔貧乏旅行で世界を回ったし、陸地に対しては余り興味が無く、海の世界に興味を持っていた。飲食店もやっていたこともあり南太平洋の海まで来て晩飯を作り合い、寄り集まって毎晩飯を食い酒を飲む、こんな事をするために南太平洋に来たわけではないお前も同じ意見だった。
  我々は出来るだけ自然の多いところを選び潜ったりして遊び、自分たちが考える南太平洋のイメージのところを選び過した。このままヨットで世界を回ろうか?とも考えたが、行く先々で同じ事が繰り返されると思うと我々のヨットの冒険もそろそろ終わりかなと感じるようになってきた。
  約7ヶ月の南太平洋のセーリングだッた。トンガからニュージーランドに向かい無事又就航地のタウランガに戻る。
最後の見張りの時無事に帰ってきた喜びと大洋を渡る目的が終わったためか?涙が流れ止まらなかった。
それとなくお前に俺は言ったんだ、「夕べは涙が出て止まらなかった」と、お前も同じ事を言った、お互いに見張りの時は交代で寝るのだから一人で涙を流し海を見ているなんて何と無く恥ずかしい気がしてなかなかお前に言えなかったんだ。
今ニュージーランドに住み着き平和な生活をしているが、この先二人でどんな思い出が作れるだろう、お互いに年老いて動けなくなるまで思い出を作り続けたいと俺は思っている。

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